今日の一冊

2019.04.10
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####多和田葉子『百年の散歩』(新潮社)
2017年4月10日
暇で不安になっていく。明日は読書会で明日もだから暇だから暇で不安が重なっていく。カレーを煮込みながら多和田葉子を読んでいた。今は「ローザ・ルクセンブルク と打って、「ク」だっけ「グ」だっけとわからなくて、「ろーざるくせんぶるく/ろーざるくせんぶるぐ」で変換して全部カタカナになってローザと次のやつの間に「・」が入ったら正しいということだろう、と思って打ってみたところ、どちらも変換されてしまう。ローザ・ルクセンブルク、ローザ・ルクセンブルグ。これは困った。困ったというか検索をすればいいのだが、だから困ったこともなかった、「ク」だった。「グ」も検索結果の2つ目には出てきてそれは日本のロックバンドということだった。これは、「グ」だと思ったメンバーたちがつけた恥ずかしい名前ということだろうか、あるいは1980年代とあるのだが、その時分には「グ」の読み方が一般的に流通していた可能性もあるだろう。ずっとバルガス=リョサだった彼が最近はバルガス=ジョサで刊行されつつあってそう振り切れるのか、それともリョサの方が通じるままであるのか、わからないのと同じように。
なのでだから今は「ローザ・ルクセンブルク通り」を読んでいる、多和田葉子はそこを散歩している、遊歩文学、とベン・ラーナーにあったけれどもまさにこれも遊歩文学で、読んでいてとても心地がいいから僕は遊歩したいのだろう。ただ今日が暇で明日も暇で、このように読み進んでいったら明日の晩に読むものがなくなってしまうということが考えられ、そのため次の一冊をAmazonで買うことにして、日本の小説をといっても何を読んだらいいのかわからないし、というので、『百年の散歩』のページから案内されるものを買おうと思って桐野夏生の小説をポチった。桐野夏生の小説はいくつか読んだことがあってそれらはどれも面白く恐ろしかったから楽しみだし、結局知ったところに逃げるというか、まるで知らないところにはアクセスしないのだなと思った。書店であれば、もしかしたら違うか。どうか。わからないがとにかく明日はそれが届くから今日多和田葉子をどれだけ読んでもかまわないことになった。この場所にとどまって、僕は本を読み続けるかカレーを小分けにするか、他の仕込みを見つけてやるか、他の事務作業をするか、なにかするだろう。それにしても地球に重力があってよかったと思った瞬間だった。重力がなかったら「私は散歩などやめて、旅をするのをやめて、自分の部屋に引きこもってしまうかもしれない」と書いている、その場合は散歩をしないということはこの小説は書かれなかったということだ、だから重力があってよかった。「同じ場所に留まっている人間は、自分の足首に足枷がはめられていることに気づくことがない。これはローザが残した言葉だ」と続く。同じ場所に留まっている僕の足首には、知らぬ間に枷が付けられているのだろうか。
好きな役者にお金を包んで渡すように、この人の仕事が好きだと思った人にお金を渡すという感覚の方が、商品を買うよりずっと気持ちいい。商品を買おうとすると、どんなに安くても損をした気がする。わたしの払ったお金が何億何兆という他のお金といっしょになって、企業のトップに立つ誰かの懐に入るのだと思うと腹がたつ。ミシンを踏むこの女性の懐に入るなら納得できる。
そこまで考えると帽子を買ってもいいような気さえしてきたが、実はわたしは帽子をかぶれない体質なのだった。もともと頭の回りが大きすぎて、かぶれる帽子がなかなか見つからない。やっと見つかっても、考え事に集中すると頭が膨張して帽子にしめつけられる。頭のいい人ならば、外から入ってくる情報量が増えれば無駄な情報は捨て、大事な情報は似たもの同士を重ねて引き出しに入れるので場所を取らない。わたしの場合は、頭の中に入ってくる一つ一つの情報が独自の宇宙を持とうとして膨張していく。硬い帽子を無理にかぶったりしたら、内部に向かって爆発してしまうだろう。
多和田葉子『百年の散歩』p.103-104
この箇所を読んでからの気がするが気がついたら頭が締め付けられているようなきつい感覚があって、なんだか具合が悪いのとも違うがいつもとは違う窮屈な変な感覚でいる。 本も読み疲れてコーヒーも飲み疲れてFacebookを開いてみるとキリンの広告か何かの投稿があって石田ゆり子のCMが流れてそのあと「石田ゆり子」で検索することになった。なぜならばとても魅力的だったから…
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