今日の一冊

2019.04.02
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####W.G.ゼーバルト『鄙の宿』(鈴木仁子訳、白水社)
半地下で外の路地の明かりが路地でいうとかかとから膝くらいの高さの窓から差していてだから人が歩けばそのくらいまでが通っていくことになるがほとんど歩く人はいなかったしその小さな窓からの光だけでは明るむのがすぐの手前のところだけで部屋全体はいつだって暗かった。
地下室の隅っこのソファに丸めた体を押し込んでブランケットをかぶって、暗然とした視線をページに落としながら煙草を吸っていた。ジャン=ジャック・ルソーの知らなかった迫害の生涯がいくつもの時間のレイヤーが混ざり合うような多重露光の映像のように広がって僕はどれだけ踊れるのかと思いながら読んでいた。踊れたり踊れなかったりしながらそこにいた。無表情で暮らしていた。2014年の4月、その年、桜はいつ咲いたか。夜、泣き腫らした目で見上げた花のその色を覚えているか。知った顔に会ってどんな笑いで誤魔化したか。あの公園で、その先にはなにが見えていたか。
彼自身、なによりも望んだのは、頭のなかで回りつづける車輪を止めることだった。にもかかわらず書くことにしがみついたとすれば、それはもっぱら、ジャン・スタロバンスキーが言うように、ペンが手からぽろりと落ち、和解と回帰の無言の抱擁のうちに真に本質的なことが語られるであろう、というその瞬間を招きよせんがためだった。そこまでヒロイックではないにせよ間違いなく言えることは、物を書くとは、次から次へと続けずにはいられない強迫的行為だということだろう。その証拠に、思考の病に陥った人間のうちでもっとも治癒しにくいのがおそらく作家なのだ。ルソーは若い頃だけでなく晩年パリでも楽譜を写す仕事に励んだが、それは雲のように四六時中脳裡に湧き上がる想念を払いのけるための、残された数少ない手段のひとつだった。でもなければ思考の装置を止めることがいかに困難であるかは、ビール湖に浮かぶ島での、彼言うところの幸福な日々についての描写が証している。
W.G.ゼーバルト『鄙の宿』(鈴木仁子訳、白水社)p.54
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