読書日記(129)

2019.03.31
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#更新分
##3月23日(土)  今日からfreeeにレシートを入力する。今日は「仕入高 ラ・セゾン 518」「仕入高 三光青果 1728」。
あとは今年のこれまでの、今が23日で昨日が22日だから30+30+22から7を引くくらいだろうか、そうしたら75くらいだろうか、75日分のレシートをちょっとずつ入力していったらフリーが完成というか完全体に近づくということで少しずつやっていけたらいいと思うけれどこういうとき一気にやりたくなるだろうから困る。
しかし朝はそれではない。出汁を取って味噌汁をつくって、それからごぼうを、先日買ってみたスライサーで、4種類あって、どれを使ったらいいのかと思って最初千切りみたいなやつを使ってみたらたしかに千切りになってほしいのはこういう形ではない。やはりピーラーなのか、と思ったら普通のというか、スライスをするやつ、それでやったらそういう形でスライスされてそれだった。それで舞茸と炒めてクミンと、あとは砂糖とか醤油とか、それで味付けをしたものをつくったらあっという間に開店の時間でせわしなかった。
それで開けてとんとんとした様子で手が特に埋まるふうでもなかったからフリーの作業をした。ここのところタブキーの調子が悪くとても押下しづらくストレスフルでキーボードの割当というのか、を、「¥」のところを押すとタブキーになるようにしてそれから「↓」を高い頻度で使うようなので近くにほしくて「F12」を「↓」にしたところずいぶんストレスフリーなものになった。
それにしてもフリーは、何年か前に一度試したときに動きがたらたらしすぎていて全然ダメだわと思ってやめていたけれどそれから何年か経って今があるわけだけれどもスラスラした動きになっていてこれならば問題なく使えてフリーは、動きのなめらかさとは関係ないけれども銀行口座とかクレジットカードとかの出入の明細を「これこの勘定科目では?」とサジェストしてくれていて、なるほど、こういうものは自動学習? 深層学習? わからないがAI的なやつ、をさせる甲斐がとてもある分野なのだろうなととても感じた。レシートの写真を撮ると自動的に日にちと金額を登録してくれる機能はまだ使っていないけれどこういうところで「取引先の名前これでしょ? あなたの普段のあれとか多くのユーザーのあれだと勘定科目これでしょ?」というふうになっていったらそれはいよいよ楽ちんになる。
そういうことをしながらだんだんと動き続けるような状態になっていってしかし静かではあって穏やかで人は本を読んでいて僕は働いていて来られた年配の男性が「読書の日記、読了しました」と言われて僕は「わ、ありがとうございます」と言ってヘラヘラしていて次に「いやあお疲れ様でした」と言おうかと思ったら「素晴らしかった」と言われて、そこで僕はお疲れ様でしたは引っ込めたが出てくる言葉がなかったからまた同じようにヘラヘラしながら「ありがとうございます」と言っただけになったが、内心というかその「素晴らしかった」という端的な言葉が胸にすっとというか「すっ」と「どん」のあいだくらいの強さで胸に置かれた感じがあって「わあ」と思っていた。僕も誰かに何かを伝えるとき、こういう言い方をできるような人になりたいと思ってそれでうれしい心強いありがたい気持ちでいながら働いて夜になったら下半身が重すぎて風呂に入らないといけない、と思った。
傷つくことを引き受けることを諦めたら終わりなんだろうなと、特に傷つくような局面はなかったが考えていた。傷つく状態というか傷つきうる状態の中にしか美みたいなものが宿る余地はないのではないか。傷つかない場所には交換とか指示とか効率とかそういうものしか残らないのではないか。傷つかない場所はきっと楽で、でもその楽には、楽なだけで美しさや感動みたいなものはないのではないか、なくなるのではないか。 なにをきっかけにしたのだか忘れたがそういうことが考えられていて夜はだから体が完全に疲れていた。次第にゆっくりしていってそれでケーキを焼いて人参とひじきと椎茸を炒め煮にして人参はスライスのやつを使って試しにと思ってやってみたがこの場合はやはり短冊切りのほうがきれいに思えて、それからさつまいもだった。何にしようか、と考えていてポテサラでは代わり映えがないし、と思っていたらこうなった。にんにくを一緒に入れて茹でて、柔らかくなったら水を捨てて粉ふきにしながらにんにくは細かく潰して、そこにみりんと白味噌を加えてアルコールを飛ばしつつ混ぜて絡めてこれが抜群においしくて、どうも白味噌というものがずいぶんよいものに思えているらしくて白味噌でつくるといろいろなものが白くなる。
夕飯にも白味噌でおかずはたくさんあるけれど肉も食べたいと思って味噌汁がほとんど具がない汁だけになって余ったものがあってそこに豚バラ肉を入れてそれで味噌汁で肉を摂取すればいいかと思っていたが肉をしゃぶしゃぶとさせて火を通したらこれはこれでおかずとして食べたくなって別のお椀に肉を取ってお椀のふちのところに白味噌とかんずりをやって、それを付けながら食べる、ということをしたらそれはとてもおいしい食べ方だった。豪勢な食事となった感があった。しかし家に帰れなかった。フリーに移行することに伴ったのか伝票の入力のやり方を今よりも簡略化させられないかと考えてExcelを触りだした、金額だけならSquareで勝手に入るからいいのだけれども知りたいのはそれだけではない、しかし今は知りたい以上の情報を入力している、入力し続けているけれど活用されていないことがいくらもあって、定食なのかカレーなのかサンドイッチなのかコーヒーなのかそれは浅煎りなのか深煎りなのかカフェオレなのかアイリッシュコーヒーなのか紅茶なのかそのときどきの紅茶なのかハーブティーなのかホットチョコレートなのかビールなのかそのときどきのビールなのかカクテルなのかそのときどきのジンなのかそういう情報は入れていても使う機会がなかった。使う気があればいくらでも使えることだが僕は使う気が起きることがほとんどなかった、二年に一回くらいしか起きない使う気でだからもはやこれは要らないのではないかと思ってご飯、パン、甘い物、飲み物、アルコール、つまみ、その分け方で十分だと思ってそういう入力の形を作って他にもいくつか簡単にしたりして終わって疲れて、風呂に入りたいから早く帰りたいと思いながらソファに腰掛けたらずんと動けなくなり、あそうだフリー、と思ってiPhoneに入れたフリーのアプリを立ち上げて何かを確認して、ツイッターを開いたらドラムの動画があってその動画を見たらドラムというのはものすごくたくさん動きがあるのだなと感心して他の動画も見ていたら2時近くになってやっと帰った。
それで吉田健一の『東京の昔』を読んでいったら終わって古木君が船に乗った。じんわりと余韻というのか船が出ていった感じがあってじんわりとあたたかさとさびしさが胸にあって島内裕子による解説に「皆が皆、自分らしく振る舞うことによって、お互いの親しみを増してゆき、そのことを読者もまた、喜ぶ」とあって本当にそうで読者も喜んだ。
これは吉田健一の長編小説群のひとつらしくてそうか、小説だったのか、いや小説だったよな、でも小説も小説じゃないものも同じなんだよなと思って、小説とも小説じゃないとも思わないで読んでいる小説というのはなにより贅沢なものの気がしてその群には他にも『金沢』とか名前を見た覚えのあるものがあって他のそれらも読みたいととても思って今年は吉田健一と庄野潤三というふうになりつつあってずいぶんと「日本文学」という感じがして二人の時期をよくわかっていないので生年を改めて調べてみると吉田健一は1912年で1977年が没年で庄野潤三は1921年で2009年に亡くなっていて10ほど違った。この10ほどの違いというのはなにか大きそうに思った、僕から見た1975年生まれの人との10の違いとは違う違いなのではないか、どうか。戦争の時に何歳だった、その違いは大きそうだと思った、ところで戦争というのはいつ始まったのか僕は知らなかった、終わりは1945年なんだろうけれどいつから暮らしの中に戦争が始まったのか僕は知らなかった。とにかく吉田健一は1912年生まれでそれで朝に『Number』の表紙を見ていたら「2019」という数字が「20」と「19」で成り立っていることを知って「19」が「20」になろうとうんうん一生懸命ふんばっている様子に見えてそれは初めてのことだった。それを思い出して『時間』を久しぶりに開いたのは寝床に移ってからで数ページで寝ていた。
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吉田健一『東京の昔』(筑摩書房)https://amzn.to/2T7NC0y
吉田健一『時間』(講談社)https://amzn.to/2GdR34I
松村圭一郎『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)https://amzn.to/2T9uGTj