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Entry 0315

岡田利規「三月の5日間」『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社)

2017年3月15日

いつの間にか私たちには、時間という感覚から遠ざかるようなあの感じが訪れていた——時間が私たちのことを、常に先に先に送り出していって、もう少しだけゆっくりしていたいと思っても聞き入れてくれないから、普段の私たちは基本的にはもうそれをすっかりあきらめてるところのもの、それが特別に今だけ許されている気がするときのあの感覚だ——それが体の中に少しずつ、あるいはいつのまにか、やってきていた。私たちは率先して自分たちがそうなるよう、積極的に仕向けて、そして実際そうなっていった。(…)さらにそのデイパック自体も、ベッドから一番遠い壁のところまで持っていき、見たくもないし存在すらしていてほしくないもののようにそこに置き、そうすることで時間を、自分たちの領域の外まで追いやってしまって、自分たちが、時間ってなんだっ? くらいのところまでいきやすくなるようにした。今になって私は、今があれから何日経ったのか、今の日付はいつなのか、そんなこと分からなくなってしまいたい、という気持ちでいた自分のことを、冷静に俯瞰できる。そしてあのときは、そういう気持ちでいることが特別に許されていたのだということが、よく分かる。私たちは窓も時計もない、テレビも見ずに済む、子供の夢のような部屋にいたのだ。セックスして、そのあとまったりする。いつのまにか寝て、どちらが先に寝たのかがどちらにも分からないような幸福な奇跡の中で、私たちは短く眠る。しばらくすると一方が目覚め、遅れてもう一方も目覚めたり、あるいは目覚めさせられたりする。それからまたセックスをする。その繰り返しをたぶん、まるまる二日間ほど私たちは繰り返していたのだ。もちろん時計も太陽もない世界での話だから、あれが二日間だったのか、三日間だったのか、丸一日くらいでしかなかったのか、正確なことなんか分からない。そのときの私たちは、分からなくなることができていたのだ。 岡田利規「三月の5日間」『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社)p.53-55

分からなくなることの豊かさ。僕たちはなかなかわからなくならせてもらえないで生きている。それはもうそういうものだと思うけれど、分からなくなれたらいいと思うことはある。わからなさではないけれど旅行のあいだ、ほとんどiPhoneを開かなかったから充電はしないで済んだそれは、少し分からなさに近づいたことだったし喜びがあった。それで三月の2日間は「三月の5日間」を読もうと思っていたのでそうしていた。9時半ごろに目を覚ましていくらでも寝ていられると思いながら目を覚ました。もっと階下の、宿泊客たちの活動の始まる音で目が覚めるかと思っていたらずっと静かで、ときおり話し声が聞こえて、なくなる。それも何か一枚の膜を挟んで聞こえてくるような聞こえ方で、それは朝の聞こえ方というよりは平日の午後遅くに布団に入っているときのような聞こえ方だった。本を少しだけ読んでチェックアウトをすると教えてもらったカフェに朝ごはんを食べに行ったらモーニングの時間は10時半で終わっておりコーヒーとマフィンだけいただいて、それから下諏訪の町をよく練り歩いた。それはとてもいい歩きだった。慈雲寺がアホのようによかった。

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