本の読める店

読書日記(99)

Entry diary99

8月18日(土)

朝から疲れていた、仕込みをして、開店前、外の階段で一服をしていたら、通りを老人が歩いていった、荷物は手に持った紀伊國屋書店のカバーの巻かれた文庫本だけで、そういう装備で歩く人は見ていてなんだかとても好きだった。
昨日は14時間、立ちっぱなしだった、さすがに疲れるらしくふくらはぎのあたりがいくらかだるいといえばだるいというような疲れ方をしていた、昨日、座ることのなかった椅子には、今日は12時20分くらいには座った、ゆっくりした始まりだったし、仕込みも昨日のようにはなかった、それで、昨日さすがにできなかったのが経理の作業だった、ずっとサボったあと最近課しているのが1日5枚のレシートと2日分の売上伝票の入力で、今日の分を済ませると、驚いたことに、昨日できなかった分を、今日やった! なんという勤勉さだろうと思って、頼もしい気持ちにもなったし、そんなにがんばる必要ってあるの? と心配のような気持ちにもなった。

そのあとは、粛々と働きながら、日記の推敲をしていた、今週は12000字くらいなのでだいぶ楽だった、推敲をしていたら、次第に、推敲よりも本読みたいわ今、という心地になっていった、ここ数日、まともに本を開いていない、いくらか、そろそろ、読みたい! という状態になっているらしかった、飢餓感。は言い過ぎか。空腹感。
それで、フアン・ホセ・アレオラの『共謀綺談』を開いた、最初の「記憶と忘却」という序文のようなものがよかった、最初は序文だと思わずに読んでいて、いくらかおかしな語り手のなにか、みたいな調子だと思っていたら普通に序文めいたものだとわかったときが一番おもしろかった。 ホイットマンの名前が出てきた、先週柴崎友香を読んでいて、たぶんニューヨークの話のときに、テジュ・コールを読みたくなったと同時にベン・ラーナーもやはり読みたくなって、また読むかな『10:04』と思っていたところだった、ホイットマンのことが後半、出てきた、それを思い出した、いま一番読みたい小説が『10:04』かもしれない、あるいは『寝ても覚めても』かもしれない。

「ヘトヘト」と言いながら帰宅し、プルースト。奥様方がぺちゃくちゃしゃべっていた。

8月19日(日)

朝、起きたとき、夜になったらまた眠れる、と思ったら楽しみだった、楽しみがあるのはいいことだった、今日も早めに店行き、仕込み、S.L.A.C.Kをシャッフルで聞きながら。爆音で。『5 sence』は最初聞いたときはあまりピンと来なかった、いつの間にかひたすら好きになった、『5 sence』の曲が流れると「お」となった、他の曲でもなった。
開店前、Twitterを開いてトレンドみたいなページのところで、高校野球の、2ランスクイズのものがあったので再生したところ、高校野球は1分も見ていればいつでも涙腺が刺激された、感動した、この試合もそうだったのか知らないがいまだに150球完投みたいなことが、力投くらいの書かれ方で書かれた記事とかを見ると苛立った、ちゃんと水を差せよと思った、それとは関係ないが朝ご飯を食べながら「Number Web」の記事を読もうと見に行くもここのところは甲子園の記事偏重でプロ野球を扱ったものは少なく、僕は高校野球はどうも興味が湧かなかった、一試合一試合が切実すぎるからだろうか、プロ野球の、長いシーズンを勝ったり負けたりしながら過ぎていくその様子、このシーズン、次のシーズン、その次のシーズンへと続いていくその様子、そのくらいがよかった、のかもしれなかった。
それで店を開けると忙しかった、途中、外で休憩しながら宇田智子『市場のことば、本の声』を開いたところ、今は第3部というのかの、講談社のPR誌の『本』に連載していたもの、見開き、2ページに収まる短いやつのコーナーで、今日読んだ「夏休み」「灯台守の話」「言葉のはぎれ」が連続でスマッシュヒットという感じで、わあ、わあ、わあ、となって、ページを折る、折る、折る、となってだんだん用をなさないドッグイヤーになってきた。忙しかった、ずっと一生懸命働いていた、なんとなく気持ちのいい日でもあった、それは気持ちのいい状態が店に流れていたからでもあった、毎日だいたい気持ちのいい状態だけれども、今日もだからいい店だった、それで疲れて、『共謀綺談』を少し読んだが、ピンと来なくて悲しくなった、疲れた、なにを読んだらいいのだろうか、疲れて、8月は、というかお盆は、疲れた、たくさんお金を稼げた気がして喜んだ、3日間、フルスロットル×14時間みたいなそういう3日間だったので、疲れて、これは終わったらお疲れ会を催したいと思って、餃子を食べに行こうかという気になった、そのときに、何を読もう、ということが問題だった、今日は『共謀綺談』ではなかったし、じゃあなんだろうか、そういうことを考えていたらいくらか暗澹とした気持ちになっていった。

西武怖い。昨日は8回に3点取られて逆転されて、今日は7回に5点取られて逆転された、昨日も今日も日ハムはチャンスを活かせていなかったというか、チャンスをたぶん何度も潰していて、そうこうしていたら一気呵成に山賊たちに襲いかかられた、というふうだった、なにか、スコアを見ているだけでもえげつなさのようなものがあった、朦朧としていた、疲れていた。

閉店して、なんの本を読もう……と暗澹としながら考えた結果、保坂和志の『カンバセイション・ピース』が選ばれた、というか保坂和志コーナーしか見ていなかった、それで選ばれ、取られ、店を出、餃子屋さんに行った、カウンターに通されて、左2席ほどは片付けられたグラスであるとか手拭きのペーパーのホルダーであるとか小皿であるとか、が並べられていて、いつもどおり閉店に向かう姿勢を前面に出していて、僕はそのすぐ横に座った、同じくらいのタイミングで一人の男性が入ってきて、カウンターで、僕のすぐ横だった、真横か、と思ったが、真横なのか、他に空いていないのか、と思いながらも、ビールと、焼餃子と、つまみを何品か頼んで、ビールが来て、飲んで、本を開いた、あああああ……これこれ……と、すぐに気持ちよくなっていった、隣の男性は僕より先に頼んでいて、食べ始めていた、大口で勢いよく食べているらしくクチャクチャいう音が聞こえてきて、クチャか……と思った、思って、それからつまみと餃子が来た、お箸や小皿が見当たらず、あれ、と思って、店員の人が通ったときにすいませんと呼び止めると、え、そこにあるじゃん、というような顔で、え、そこに、というようなことを言った、それは隣の男性の目の前というポジションで、いやいやいや、それは、違うよ、それはそのリアクションは違うよ、するなら「あーすいませんこれなんです」でしょうよ、「え、そこに」はそれは違うよ、と思って、思いながらすいませんとちょこんとやりつつ隣の男性の前に手を出すと、あちらも「あ、すいません」というふうのリアクションで、わざとかなというほど大口の口に詰めこまれた白いご飯をこちらに開示するような、「あ、すいません」というふうのリアクションだった、なんとなく憎めない気持ちというか、憎む必要はないのだけど、そういう気持ちになりながら、ビールで口を湿らせ、本をまた開いたところ、隣から「今のはひどいですよね」という声が聞こえて、僕は「うん、ひどいと思う」と答えた。
この時間になるとお店の人は露骨に閉店業務のことしか考えていなくなるようで、前はそんな感じじゃなかったような気がするのだが、前回は少なくともそうなっていた、同じ思いをするのかなと思いながら行ったわけだったが、同じ思いをしそうだった、それからもすぐ横でカトラリーであるとかをガチャガチャガチャガチャやっていて、なんかもう気分わりいなあ、と思う、思いながらも『カンバセイション・ピース』はよくて、ちゃんと染み入ってきた。

伯母と奈緒子姉と幸子姉が猫が好きで、九七年の暮れに伯母が入院するまでこの家には猫がいつでも一匹か二匹ずつ飼われていたので、うちの猫たちは遠い昔に生きていた猫も含めてたくさんの猫の匂いを嗅いだかもしれない。これは比喩ではなくて本心から私の気になっていることで、犬や猫はいつぐらいまで遡って残された匂いをたどることができるのかと思う。匂いをたどることができるかぎり、匂いを残したかつてそこに住んでいた猫が存在しつづけていると、あとから来た猫は人間が了解しているのと別の仕方で感じているのではないか。同じように、もうすでにこの世界にいない伯母もうちの猫たちにとっては存在が消えきってはいないのではないだろうか。 保坂和志『カンバセイション・ピース』(新潮社)p.8,9

おめえさ、と、怒声が聞こえてきた、隣にいた男性だった、彼はサクサクとというかクチャクチャとスピーディーに食べ終え飲み終えると会計に立って、そこで声を上げたらしかった、店員に文句を言っているのかなと、これはそう思うというよりは、なにか一瞬にして生じる状況の把持のようなそういう思い方で、思って、ちらっとそちらを見ると顔は違うほうを向いている、その方向はカウンターに他に一人座っていた客で、お前の座り方のせいで迷惑かかってんのわかんねーのかよバカ、と言った。え〜……と思って視線を本やビールや餃子に戻し、男性が出ていくのを待った、罵声を浴びせられた客も棒立ちの店員も、同じようにただ過ぎ去るのを待つ、という解法で対応したらしかった。出ていくと、しばらく僕は胸がドキドキしていた、客は、その客はカウンターの右端のひとつ横に座っていて、そのため罵声クチャ男性は僕の横に座ることになったわけだったが、それでそれをもって迷惑として何か義憤みたいな性質も勝手に持っていそうなそういう怒り方で怒ったわけだったが、客は、スタッフに向けて
「迷惑かかってました? 大丈夫ですよね?」
と何度か言っていて、何か、店の人間からの承認を得られれば罵倒された痛みや怒りが引くか和らぐかするようだった、スタッフは「大丈夫です、すいません」と謝っていた。スタッフたちはそのあとスタッフ同士でぶつぶつと不平のトーンで何かを話していた、先ほどの件かもしれないし、関係ない他の客に対する不平かもしれないし、仕事に対する不平かもしれないし、僕に対する不平かもしれない。つまり、可能性は無限になってしまうのだから、客に聞こえるような音量で不平の話をするな、ということだった。
ビールとつまみが終わったので、ビールとつまみ数品と餃子とご飯の大盛りを注文して、2セット目、みたいなつもりで注文して、読み、食べ、飲んで、この小説を選んでよかった、こんなに気分悪い感じの店の状態でも気持ち悪くなく過ごせたというかちゃんと楽しかった、と思って帰った。帰ってシャワーを浴びながら、僕は罵声を浴びせた客についていって、外に一緒に出て、いやあのお客さん悪くないですよ、怒りを向けるべき対象があったとしたら店ですよ、と言えばよかった、と思ったが、そのときには思いつかなかったし、思いついたとしても、そのあとの残された僕が気分よく過ごせなくなるかもしれなかったし、言わなかっただろう、と思った。疲れた。

8月20日(月)

朝はたいしてやることもないし、と思って、そうだ、夜にやろうとしていたショートブレッド焼きを開店前にやっちゃうか、とやったところ、開店までの時間が慌ただしくなって後悔した、どうにか間に合ったぜ、という調子で開けた、今日も夏休みが続いているのかコンスタントにお客さんがあり、そうこうしていたらいくつか仕込みをする必要が生まれて、わたわたと、後手後手となりながら夕方までフルスロットルで働いた、こんな疲れ方は久しぶりだった、去年以来だった、今年の3月とかの方がずっと忙しかった、そのときはだから人がいた、ということだった。5月に一人減って、なんとなく、そのあと、気ぜわしい時期になるような気がしていて、だからしばらくしたらまた募集しようと思っていた、そろそろかもしれなかった、疲れて、ネガティブな気分になっていった、暗かった、休憩しながら『カンバセイション・ピース』を開いた。

視線というのは厳密に考えようとすればするほど複雑に入り組んでいて、主体の位置があやふやになっていく。話し相手の表情の変化に咄嗟に反応して、意識するより先に返事の中身を変えてしまうことが誰にでもあるのも、視線と視線が行き交うプロセスの中に気持ちが漂っているような状態があるからで、そのとき視線は自分の思いどおりになっているわけではない。もっと言ってしまえば、視線はその対象である家や風景がなければ存在しなくて、外に立っていてもなお家の中にいる自分の延長の視線を操っていると感じるその視線自体がつまりは家のことであり風景のことなのではないかと思うのだが、家を見ていた空き地の前を離れて駅の方へと歩きはじめると、強い陽射しに照らされて濃い緑の葉を茂らせている桜の木や欅や、それがアスファルトに投影されたくっきりとした輪郭の影が次々と目に入り、ほんの一分前に見ていた家もそれを見ながら浮かんでいた考えも、あっさり押し出された。 保坂和志『カンバセイション・ピース』(新潮社)p.56,57

煙草を一本吸うあいだに、読んで、それだけで、気持ちが開かれるようだった。ずっと読んでいたい。と思いながら、また一品作るべきものが出てきて、れんこんのきんぴらを作った、「『高架線』きんぴら」だった、といっても花椒を入れるというだけで、具はれんこんだけでなくきのこや人参も入った、『高架線』といえば滝口悠生といえば昨日、Twitterで、11月くらいまでアイオワ大学のライティングプログラムに行ってきますということが投稿されていて、『死んでいない者』の冒頭部分の英訳がサイトで読めますということが書かれていて、見に行くと、『死んでいない者』は「The Unceasing」というタイトルになっていた、「絶えない、絶え間のない、打ち続く」という意味だそうだ、なんだかかっこよかった、それで訳文を読もうと、読み始めると、そういえば僕は英語がわからないのだった、ということを思い出して、読み始めるまで少し忘れていた感じがあってそれはなんだったのだろうか。
それはともかく『カンバセイション・ピース』を、読んでいた、夜はゆっくりになって、わりと座っていて、読んでいた、8月12日から妻が姪と一緒に実家に帰って、とあったから今はお盆だった、調子よく読んでいると、あれだけ「ゆっくりしていたい」と思っていたのに、そうだ、あれやっとくか、のようなタスクが生まれというか思いつかれ、別に明日でもいいのにやろうとする、なんだか元気になってきたようだった、少しの読書で取り戻されるものだった、そういうことだろうか。
それで、いくつかのことをやっていた、チーズケーキの下ごしらえをしたり、スパイスを調合というか、スパイスというと調合という言葉を使いたくなってほとんど初めて使った気がする使い方で使ったが実際はたぶん調合ではなくスパイスをすぐに使えるように準備しておく、カレーを作る際のセットみたいなことをしておく、カルダモンの殻を割って実を取り出すみたいなことを延々とやっていた、それからしばらく立ち働いていた、そうしたらやはり、疲れが如実にというか露骨に前に出てきて、肩は重いし腰は重いしふくらはぎは重い、総じて重かった、完璧な疲れ、11時くらいには、おおよそ片付けも済み、もうあとは本当にゆっくりしていよう、と思ってまた本を開いた、奈緒子姉と英樹兄と幸子姉が家にやってきた、高志と浩介も交えてわーわーとやっている、なんなんだろうこの多幸感は、と思う。

閉店、帰宅後、ぐったりし、酒飲みながら読書。とてもいい、とてもいい、と思いながら、読み、眠くなり、寝。ふくらはぎのあたりがずっしりとしている、寝ていても、それを感じる。
原初的な喜びに、行為の喜びにとどまること、そのことを考えている。

8月21日(火)

思ったよりも早く起きてしまった、居間にいる遊ちゃんに聞くと、まだ11時にもなっていなかった、眠気が意外に遠い。近寄せるため、布団の横の文庫本を取って、読む。鴨居について書かれているあたりで、鴨居ってなんだっけ、どういうものだっけ、と思いながら読んでいたら、目論見どおりだんだん意識が眠りに近づいていった、窓からさす光が、なにか、寄せては返す波のような調子で明るさと暗さのあいだを行ったり来たりして、そのテンポと同期しながら、眠りに落ちていった、起きて、「何時?」と聞くと1時半だった、やった、10時間寝た! と思って起きた。
起きると、今日は外で昼飯を食べようと思っていた、なぜなら今日は夜までは何もしないぞ、と思っていたからなのだが、14時から甲子園の決勝で、どれどれ、見たいぞ、と思っていた、「バーチャル高校野球」というサイトでパソコンで見られることも昨日調べていた、それもあって、そもそも食べたいのはうどんとかなんだよな、と思って、近くの蕎麦屋さんでうどんを食べようかとも思っていたが、うどん、家にあるしな、と思って、茹でることにした、茹でて、パソコンを開いて、再生した、すると1回、金足農業高校は、というのか吉田投手は、ピンチを迎えた、無死で二、三塁だったっけか、一、二塁だったっけか、で、迎えた3番、4番と、連続で三振に取った、これで無失点で抑えたらなんかほんと物語だわ、と思っていたら、打たれ、それからまた打たれ、3点を失った、なにか、安心するような気分があったし、快投を見たかった気分もあった、遊ちゃんが出かけていった、僕はうどんを食べながら、見たり見なかったりしていた、なにか、見続けることが恐ろしいような変な消極的な気分もあった、3回だか4回だかに3点を追加され、大阪桐蔭は怖かった、5回には6点を追加され、伝令で走ってきた控え選手がマウンドを走り抜けていくパフォーマンスを見せ、みなで笑う、そんな場面があり、感動して、泣きそうになった、5回を終えて、パソコンは閉じた、120球くらい投げていて、いったい今日、どれだけ投げさせるつもりなんだろう、と思った、これが中4日とかであったら、どう違ったのだろう、とも思った、この先、怪我をすることになるのだろうか、と思った、そのとき、と思ったが、マウンドの上にいるその現在がきっとすべてになるであろうことは想像に難くなかった、だからこそ球数制限以外に解決策はなかろう、と思った、わかりやすくがんばる、という物語はわかりやすく感動するけれど、そうじゃない物語でだっていくらでも熱狂できる。

晴れていて、暑そうだった、眠気みたいなものが近くにあった、あれだけ寝たのに、と思いながら、でもそんなにゆっくりはしていられない、外に出ないとならない、と思って、20分くらいのアラームをかけて、布団に入った、『カンバセイション・ピース』を開いて、読んだり、目をつむったりしていた、アラームが鳴って、つい「繰り返し」ボタンを押した、新大久保にスパイスを買いにいく、というタスクがある、ねばならない、しかし、本当にねばならないのだろうか、それは今日であらねばならないのだろうか、木曜でもいいのではないだろうか、等々、考える、考えるが、まあ、行っとこう、という気になり、起き上がり、家を出た、自転車で、新大久保を目指した、5時、交通量が多かった、思ったよりも暑かった、汗をかいた、いつものハラルフード屋さんでさっさか大量のスパイスを買い、リュックに詰め、また自転車、あと30分遅くてもよかったな、と思いながら、走り出す、駅前の、新大久保駅から大久保駅に向かう向きに走っていると、太陽が真正面からやってきた、前が見えないほどの逆光で、なにか、砕け散ってしまいそうだったというか自分が砕け散るイメージがやってきて、それを思いながら、ゆっくり気をつけて自転車を漕いだ。
6時にはフヅクエに着いて、お客さんが何人かあった、僕はひきちゃんに「やあ」と手をあげると厨房には入らずすたすたとカウンターの一番奥の席に行って、座って、『カンバセイション・ピース』を開いた、1時間、読書ができる、と思うと愉快だった、それで読んだ。コーヒーを今日一日、口にしていなかったため、ひきちゃんに「水出しコーヒーはまだありますか?」と問うて、あるということだったので、いただいた、おいしかった。
7時になり一度閉店で、ひきちゃんといくらか歓談して、見送って、シャッターをおろして、それから7時半になってまた開けた、「会話のない読書会」の日だった、柴崎友香の『公園へ行かないか? 火曜日に』だった、そのため、「言葉、音楽、言葉」で出てきたこともあって、ジェフ・バックリィを、始まりの時間までは掛けていよう、と思って掛けていると、賑やかだった、8時まであと10分くらいのところでちょうど「ハレルヤ」が始まってくれて、これこれ、というかこれ流さなきゃ意味なかった、と思って、これこれ、と思った、終わって、もう一度「ハレルヤ」を流した、8時になって、止めて、挨拶をして、それで、読書会の時間が始まって、1時間くらいでオーダーが落ち着いたので僕も座って読むことにして、読んだ、表題作と、それから「とうもろこし畑の七面鳥」を読んだ。同じ場所をぞろぞろ歩く、それぞれ、見ているものは同じようで、違う、という感じが、僕が思っている読書会のありようとかなり近い気がして、うってつけの2作だった。

なんでこんな形にしたんだろう。生き返りそう。ゾンビ? 生まれ変わりたいんじゃないの? ああそうか。悪趣味だ。わたしは生まれ変わりたくない。わたしたちは言い合った。reborn、という単語だったと思う。記憶の中では日本語に変換されたほうだけが残っていることが多く、ところどころは英語で覚えている。それを言った人の声で、覚えている。
大きな音を立てて、芝刈りマシーンに乗った男が丘に現れた。周りには刈られた芝が飛び散って緑の霧が発生し、植物と土のむせるようなにおいがした。ジャニンとウラディミルが、その男に何か聞きにいった。男が森の奥を指さすのが見えた。 柴崎友香『公園へ行かないか? 火曜日に』(新潮社)p.16,17

この箇所が最初に読んだときはなんとなく通っていたこの箇所がよくて、よかった。終わったあと、お帰りの方と外で話した、B&Bでのトークイベントにも行っていたそうで、そのときに、執筆時期が早いものの方が、だから記憶が色褪せていないときのものの方が、小説のモードで書きやすかった、あとの方になると、思い出すことに力が入ってしまって、それが小説のモードを邪魔するようなところがあった、というようなことを話していたというようなことをたぶん話していて、それは面白いなと思った、思ってから、小説、とまた思った、エッセイ、小説、という区切りよりも、どうしてこんなにも小説が立ち上がるのだろう、ということが気になっていて、読むとやっぱり気になるらしく、気になっていた。
小説を作るためには作り話を仕立てる必要はない、ということだった。と、書いてみると言うまでもないことだと思ったが、改めてそう思ったのか、これまでとは違う思い方で思った、だから、仕立てる必要はない、作り話の面白さを競うだけならそれは芸でしかないというか、芸を貶める気はないから、違う言葉が必要だろう、なんだろう、スキルとかでいいのかな、技を貶める気もないから、いや、まあ、いいや、作り話の面白さは必須ではないというか、そんなことではない、小説を立ち上がらせるのは別の何かだ、と思って、思って、それから。
それにしても、表題作は特にだけど、最初読んだとき、小説だ、と思いながらも、エッセイと言われたらエッセイと読みそうだし、日付けがあれば日記として読みそうだ、と思ったしそう書いた気がするけれど、2度めの今回は全然そんな感じがなく、小説だ、小説でしかない、というような気分が強かった。
読書会の途中で、今晩はまた豚の生姜焼き、と思って、肉と玉ねぎを漬けこんでいた、それを閉店後、いろいろ済ませて、1時近くになっていた、焼いて、たらふく食べて満腹と思って帰って、遊ちゃんは僕が帰ったらたいてい起きて、それで話したりするのだけど、今日はずっと寝ていた、起きても本当にかすかで、寝ながら起きているぐらいの状態だった、シャワーを浴びてからウイスキーを飲みながら『カンバセイション・ピース』。庭の水撒きの場面、圧巻の40ページだった、これは本当にすごい、すごいし、この面白さがひたすら持続するのはいったいなんなんだろう、と思う。

私は水を撒いているあいだじゅうずうっとしゃべっていたわけだけれど、それはチビの小学生と大柄な女の子というイメージに上機嫌だったからだけではなくて、この庭に向けて私の記憶を送り返しているみたいなつもりになっていたからだった。あるいは綾子に私の記憶をしゃべることで、私が水を撒かないときに私の代わりに水を撒く綾子が、私の代わりに私の記憶を思い出すと考えているのかもしれなかった。子どもの頃から綾子が抱いていた、自分が答えをわからなくても他の誰かがわかっているからいいんだという考えが、世界との関わりについて何らかの真実を示唆しているように私は感じはじめていた。 保坂和志『カンバセイション・ピース』(新潮社)p.235

8月22日(水)

開店前からバタバタしていて、別段営業が始まってからでも構わないタスクであっても、先やっとくと楽になる、先やっとかないと詰まる恐れがある、そういう気分によって開店前にいくつかのことをせっせとやっていると、バタバタとして、基本的にこの店は金土日の店で平日はのんびりしてあれこれのボトムを整えるというか、ボトムってなんだったか、とにかく整える日、と同時にゆっくりめに過ごす日、英気を養う日、金土日ががんばる日、が基本のはずだが今月はどうも様子が変で、お盆のあたりからお盆が終わったはずでもまだ忙しさみたいなものが残っていて、何か夏休みっぽさがある、学生の人たちが来ているという感じでもなくて、夏季休暇の社会人みたいなそういう様子があって、うれしい、去年はこんなふうじゃなかった、疲れる、それで改めて来客数を見ていると8月の10日から毎日が調子のいい金曜以上の調子になっていて、それがだから12日とか続いているわけだった、それは確かに疲れるし慌ただしいと思って、疲れが正当化された、正当化されたら疲れが落ち着くわけではなく、むしろ安心して疲れを感じすらする、疲れていた、その疲れの一因にはそういう忙しい日々のあいだの休みの日に普段まったく運動していない体を動かしてキャッチボールをがんばったということもあるのではないかと思ったが、間違ったことに明日もキャッチボールの約束をした、ボールを投じ、投じられたボールを捕りたい。
それで、夕方まで、あれや、これや、それや、という様子でいくつもの仕込み等をして、がんばって、また疲れて、それから、この疲れの一因、落ち着かなさの一因には、最近まったく自分のためにコーヒーを淹れていないということもあるのではないか、と思った、つい、すぐに飲める、そして冷たさがうれしい、水出しのコーヒーを適当に、麦茶の要領でカップに注いでグビグビ飲む、それが一日のコーヒーのすべてになってしまっていて、ここのところずっとそうだった、落ち着いて、自分のために豆を挽き、自分のためにドリップする、そういう時間が必要だったりもするのではないか、そう思って、一段落したあと、淹れた。

夜はのんびりで、久しぶりに、だから12日ぶりとかに、平日だった、そうなるとそうなったで勤勉で、勤勉なのかただの多動なのか、あ、あれやっとこ、が芽生え、これで金曜少し楽になるぞ、というような、働きをして、偉いし、ちゃんと休めとも思う、それから『GINZA』の連載の文章に取り掛かったりして、野球を見ると日ハムがソフトバンクに1対3でリードされていてそのあとに見ると 2対4でリードされていて、ふーむ、まずいよなあ、と思っていたところ、次に見たら6対4で逆転していて、その数字を見ただけで少し感動してしまったのだけど、何が起きた、と思って見ると清宮幸太郎が逆転の3ランを打ったということで、映像も見たら、スコーンと打っていて、すごい、と思った、もっと泣きそうになった、これはこのまま勝たないといけない試合だ、と思った、8回に1点差に詰め寄られ、でも勝たないといけない試合だ、と思って9回、一球速報で見ていると、浦野が上がっていて最初のバッターが出塁して、怖い、と思ったら今宮が犠打でランナーを進めて、怖い、と思ったら次に見たら塁上のランナーが消えていてアウトカウントは1のままで、あ、と思ったらグラシアスだかなんだかという選手が今日2本目のホームランを打ってあっさり逆転していて、うわ、と思った、次に見ると柳田が二塁ランナーとして出ていて、次に見たらアウトカウントは1のままで、あ、と思ったら松田がホームランを打って突き放したというか試合を決めた、なんというか、これは無惨な試合だ、と思って、無惨、と打ったあと、無惨ってどういうことだろう、惨めではない? と思って調べると仏教の言葉で「[無・慙] 罪を犯しながら心に恥じないこと。 「放逸―」」とあり、三つ目の意味で「気の毒なこと。いたましいこと。また、そのさま。」と出てきた、そういうことだった、無惨だった、そのまま負けた。一方で広島は同点で迎えた5回、ワンアウト二、三塁の場面で西川龍馬が3ランを打って勝ち越した。

広島の攻撃がツーアウトまで来たところで、大峯が突然立ち上がって紙コップをくりぬいたメガホンで歌いはじめた。
「スウィート、スウィート、ナインティーン・ブルース
だけど私も、ホントはすごくないから
スウィート、スウィート、ナインティーン・ドゥリーム
誰も見たことのない顔、誰かに見せるかもしれない
スウィート、スウィート、ナインティーン・ブルース
スウィート、スウィート、ナインティーン・ブルース
スウィート、スウィート、ナインティーン・ブルース
スウィート、スウィート、ナインティーン・ブルース」
まわりはみんな、わけがわからない顔をしていた。さっきからずうっと一人で勝手に野次りまくっているオヤジのことだから、もう無視しているしかなかったのだろうが、大峯のバカバカしくもクソ真面目な根性に感動して、途中から私も立ち上がって歌わないではすまされなくなってしまった。安室奈美恵の『スウィート・ナインティーン・ブルース』はローズの大好きな歌なのだ。」 保坂和志『カンバセイション・ピース』(新潮社)p.287

野球の場面が始まってから、この場面のことがずっと頭にあって、野球の場面になる前からずっとあったが、よりあって、それで野球の場面が始まってからは、ずっとあって、このページを開いて左側に何かそんな気配を感じて、そこにぶつかるまで、オー、ヤー、あの小さなリトル ——ああ——来るぞ、来る来る、あのかわいいリトル——AHH——
ローズ! と思って、わーっと盛り上がり、ほとんど泣きそうでいた、そのまま読んでいくとローズの打席になって、

右中間にぐんぐん伸びてくるのがローズの打球で、それこそがローズの個性だが個性が問題なんじゃない。野球はすべてのプロセスが得点に還元されて、勝ち負けだけが残る。伝統の名勝負や名選手なんていうのはテレビで野球を見ている非当事者の言い逃れで、毎日の試合には勝ち負けしかない。ピッチャーが投げてバッターが打ち返す一連の運動の中には、伝説も名勝負も歴史性も関係なくて、だからゆっくりした粘っこい素振りをするローズに、ライトスタンドは「ローズ!」と声かけ、
「カモン ローズ ヴィクトリー
ハッスル ボービー ゴゴーッゴーッ」
と歌う。 同前 p.292,293

この場面で決壊し、グスングスンと泣きながら読んでいた、営業中。
営業後、体が疲れていた、体の疲れがはっきりと感じられた、重かった、上の引用部を打ちながら、聞こう、と思ってYouTubeで「SWEET 19 BLUES」を流すと、そのまま安室奈美恵の音楽が次々に流れていって、今も流れている、さっきは「Baby Don't Cry」が流れていてやっぱり好きな曲だった、『PLAY』だけアルバムとして聞いたことがあって一時期、2008年頃だろうか、やたら聞いていた、思い出すのは岡山だった、デカダンで、営業中だろうか営業後だろうかあの店にはそんなものは関係なかっただろうか、流して、いい、いい、と言った、その夜というのかデカダンで過ごした夜の全体を思い出して、今は「GIRL TALK」という曲が流れている、初めて聞く、とてもいい、これは2004年の曲とあるから『PLAY』の前の時期だろうか、そのあともいろいろと聞いたり見たりしていた、オフィシャルでMVがアップされているのだけれども映像の監督の名前がクレジットされていなくて、してあげてもいいんじゃないの、と思った。思って、帰った。

寝る前、プルースト。

8月23日(木)

遊ちゃんに11時18分だと言って起こされて、なんの時間? というとぼけた反応をしてというか実際にとぼけてから、それから11時半くらいには家を出ようと言っていたことを思い出してゲラゲラ笑った、それからしばらく何か言ったり聞いたりしながらゲラゲラ笑って、目覚めの時間から上機嫌だった、ようやく布団を出た、家を出た、今日はお昼はウミネコカレーで食べようと昨夜話して、楽しみな予定だった、それに行った、途中、工事している道があり、道路で誘導する係の人が「xxさんが帰ってきた」と通信機器で話していて、車が通った、迂回路だったが、その中間に住んでいる人のようだった、車庫入れを、おじさん数人がバックバックとオーライオーライと言いながらやって誘導していて、運転席の奥様も愉快そうで、なんだか気持ちのいい場面だった、暑かった。
ウミネコカレーでは僕はキーマカレーを食べて、ビールの小瓶を1本頼んで二人で分けて飲んだ。カレーは相変わらずおいしかった、おいしかったおいしかったと言って、商店街を歩き、ブルペンに僕は初めて入って、よかった、なんだか気持ちのいい店だと思った、正解とかではなく、これが好き、というのがちゃんと出されているような気がして、それがよかった、それでパドラーズコーヒーに寄り、カフェラテを、テイクアウトにして、中の椅子で待っていると壁に白いTシャツがあるのに遊ちゃんが気づいて、これまではしばらくは紺色のやつと何色だったかのやつの2色だったが、そこに白というか「アイボリー」とお店の方は言っていた、アイボリーのやつがあり、僕はかねてより白があればほしかった、パドラーズコーヒーのTシャツを着てフヅクエで働くということをやってみたかった、そのため買いたかったが、僕はそのとき200円くらいしか持っていなくて、遊ちゃんも100円くらいしか持っていなかったため、取り置きを打診したところ快諾してくださって、取り置きをお願いした、それで、冷たい飲み物を飲みながら、家に帰った、家を出た。
代々木公園駅に出て、そこから遠回りルートで電車に乗る算段だった、いちばんシンプルなのは新宿、池袋、と乗り継ぐことだったが、二つの巨大駅どちらも経由せずに行く方法はないのか、と調べたところ、あった、つまり、千代田線で明治神宮前に出て、副都心線で地下鉄赤塚、地上に上がり少し歩くと下赤塚で、東上線、というそういうルートだった、それで、それは楽しみだった、つまり、副都心線が30分あった、この30分が楽しみだった、読書時間だった、それは、このルートを調べた昨日から楽しみなことだった、この30分を読書に当てるぞ、それが、楽しみなことだった、というその30分があったため、そこで『カンバセイション・ピース』を読んでいた、30分は思いのほかにあっという間だった、東上線は、久しぶりだった、懐かしさがあったわけではなかった、池袋行きだった、ときわ台で降りると乗る人が多く、乗降車数がそれなりにある駅なのかなと思って、降りた、駅前はロータリーでまるく、真ん中の広場を通って鈴木さんの姿を探していると高いところに人影があり向かいの2階のマクドナルドに鈴木さんがいて手を振っていた、ときわ台を見渡していると「ガールズバー」と書かれた建物がありウッディな壁面でガールズバーのキラキラした感じというのか、ガールズバーがキラキラした場所なのかは知らないが、そういう感じとは異質で、変なの、と思って遊ちゃんに送ろうと思って写真を取っていると鈴木さんが来て、ガールズバーですか? というのでそうですと答えると、以前、客寄せの女性に聞いてみたことがあるという、それによるとオーナーがディズニーシーが好きで、ということだった、ディズニーシーが、このように変換された、ということだった、通りをほんの少し歩くと目的地があり2階に上がるとスケルトンの物件があった、鈴木さんがお店を始めるために借りようとしている物件だった、一度一緒に見ませんか、と誘っていただいて、見に来た格好だった、見ながら、いいですねえ、いいですねえ、楽しいですねえ、と言った、可能性に満ち満ちているというか可能性だけがあるような、スケルトンというのはそういう場所だった、どうにでもなれる、もちろん物理的な制約はあるけれど、どういう可能性もある、どういうふうに使うのか聞きながら、疑問を呈したり、意見を言ったりしながら、けっきょく1時間半近くそこにいた、大きな窓からは光が差し込み、風が抜けた。

電車に乗り、隣の上板橋で降りた。上板橋は商店街がよかった、途中でコロッケを買った、歩いて、歩いていくと城北中央公園があり、きれいで広くて気持ちのいい公園だった、何面かある野球場のひとつのところまで行くと、大学生と思しき人たちが試合をしていて、力強く、速く、上手な人たちらしかった、近くのベンチにとんかつさんがいて、お待たせしました、と言って、とんかつさん、鈴木さん、鈴木さん、とんかつさん、と紹介して、3人でキャッチボールのできそうなところまで歩いていった、芝生の、広々としたところがあり、そこだった。グローブを出し、Tシャツを着替え、三角形になり、投げて、捕って、投げて、捕って、を繰り返した、途中、どうしてこんなに楽しいことを、たとえば大学生のときであるとかに、やろうと思いつかなかったのだろう、それこそ、僕が初めて住んだ一人暮らしの部屋の道路を挟んだところに、毎週草野球がおこなわれているような公園もあった、桐原公園、それなのに、キャッチボールをしようなんていう発想は一度も出てこなかった、もったいないなあ! と朗らかに考えながら、投げて、捕って、を繰り返した、途中、ゴロを投げたりフライを投げたり、自在だった。愉快だった。鈴木さんは高校まで野球をわりとがっちりとやっていたそうで、上手だった、高校時代はサードだった、軽快なグラブさばきという感じがいくつかあった、これまで、会っても飲む話す、いちばんダイナミックな見かける運動といえば歩くぐらいのものだった人たちが軽やかに小気味よく体を動かす姿を見るのは、なんというか、面白いものだった、新鮮だったし、感動みたいなものがまったくないといえば嘘になった、よかった。大人になってよかった、大人は楽しい、というような。
それから、近寄ってきたご婦人にそこでキャッチボールというかキャッチボールはまだしも投球練習みたいなことはさすがにどうかと思うと注意され、うっかりしていた、そりゃそうかもしれなかったと反省して、マウンドがあっちにあるよと教わり、いやはやすいませんでしたと謝り、そちらに行った、草ぼうぼうで、禿げて土が露出しているところが一直線にある、そういうワイルドなマウンドだった、そこでまた、投げて、投げて、投げた。大満足だった。
公園の中を歩きながら、『カンバセイション・ピース』に羽根木公園の名前が出てきたことをとんかつさんに話した、野球の場面が感動的だったと話した、とんかつさんはあそこで描かれていた時分の横浜スタジアムによく行っていたらしく、あの場面は、知っている時間、行っていた場所、そういったものへのなにか感慨みたいなものを感じながら読んだんだと話した。駅に着き、そのまま電車に乗りそうになったが、軽く飲みます? となり、なった。中華料理屋さんに入って、つまみつまみ、ビールを飲み飲み、話し話し、過ごした、とんかつさんに野球のおすすめ小説を教わった。『ユニバーサル野球協会』『ナチュラル』『素晴らしいアメリカ野球』。
途中、隣のテーブルの、女性と男性とちびっこのテーブルのちびっこが、八宝菜を食べていたらしい、「ピーマン」と聞こえたあとに、「どうしてこういう名前になったんだろうね」と言っているのが聞こえて、そういう疑問は、本当に、とてもよいよなあ、と思った、どうやら名前が気になったのは八宝菜についてのようだったが、ピーマンについてもぜひ気になってもらいたかったというよりは気になった。調べた。「ピメント(フランス語の「piment」あるいはスペイン語の「pimiento」(いずれも広義のトウガラシを指す)とされる」とのことだった。大事なのは問いだった。

帰りは、同じ経路で帰ろうかと思ったが東松山駅あたりの人身事故の影響で東上線に遅れが出ており、乗ってみると遅々として進まないような進み方だった、とんかつさんと話しながらゆっくり帰った、『楡家の人びと』を読みたくなった、どうにか池袋まで着いたものの副都心線も同じく遅れており、地下深くのホームから地上に舞い戻って山手線を使うことにしたところ、山手線も少し遅れていて(これは人身事故とは別の理由で)、軒並み遅れる帰り道だった、宗教音楽のことを教わった、原宿で別れた、1時間半くらい掛かっただろうか。

寝る前、プルースト。

8月24日(金)

歩きだろうかと思ったらちょうど雨が上がり自転車に乗れて得した気分だった、八百屋さんで野菜を買っていたら雨が降り出して最後の30秒濡れた。店に着き、乾かそうと努めた。
昨日、とんかつさんに教わった真言宗豊山派の読経を聞きながら準備していた。途中、配達の人があり、なんとなく申し訳ない気持ちが芽生え、変なもの流していてすいません、と謝るというか、言った。
開店後、忙し。絶え間なく働きながら、絶え間はあるので、外で煙草を吸いながら『市場のことば、本の声』を開くと、水分補給みたいな効果を得る。どれも本当によくて、エッセイ、と思う。エッセイ。
絶え間がやはりなかったのだなと気づくのは夜になっても経理のタスクが塗りつぶされていない状態を見たときで、やらないととは思わないが、完了されていないタスクがあるのは気持ちは悪かった。で、やった。11時。偉かった。

12時。閉店。飯食い、食った後、日ハムの試合のハイライトを見た。久しぶりに勝った。淺間大基、堀瑞輝、清宮幸太郎、石川直也。若い人たちが、躍動していた。中田が、犠牲フライでヘッドスライディングで還ってきた。胸が熱くなった。ホームランを打った。通算200号アーチだった。199の手作りのパネルを持った少年の姿が映った、ホームランの打球が上がって、わーっと大きく目と口を開く姿が映った、199が裏返って200の文字が見えて、隣のお母さんらしき人に勢いよく抱きつく姿が映った。胸が熱くなった。

帰り、『カンバセイション・ピース』。



お知らせ
読書日記が本になりました

「読書日記」の他の記事