読書日記(86)

2018.05.27
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#5月19日(土) 朝、眼が覚めたときに鳥の鳴き声が聞こえ、昨夜降っていた雨は止んだのだな、と思って、それから、鳥は雨の日は鳴かないのだろうかと思った、思い、外で暮らしている犬や猫が雨のときにどういうふうに動き、あるいは雨宿りをするのか、雨の降り始めをどれくらいの早さで感知するのか、先に気づくのか、気配という以上のなにかで雨が降ることをたしかに知るのか、そして感知したらそれに則った行動をするのか、あるいは気にしないでうろうろしているのか、雨宿りをした、しかし途中で雨のなかを次の雨宿り場所まで進んだ、雨が止んだ、空を見上げたのか、見上げなかったのか、その一部始終の様子を見てみたいと思って、それから起きた。
店に着くと、発注したTシャツが届いた、段ボールを開け、ちらっとだけ見、リュックに詰めた、帰ったら着てみよう、と思ったら非常に楽しみな予定ができた感じがあってワクワクした。それから準備し、飯食い、店開け、営業。
忙しいわけでもないけれどやることが途切れないような状態が続き、仕込みを途中でしたりしながら真面目に働いた。夜になり、落ち着いた感じがあり、やることもないような気がし、本でも読もうか、と思ったところから忙しくなり、結果的にはここ1ヵ月くらいでは一番忙しいというかお客さんの数の多い日になった、快哉を叫んだ、それから、働きながら、本を読む人たちを見ながら、本を、読みたい! と強く思った。ここ一週間は他のことにかまけて全然本を読めていなかった、本を、読みたい! 僕は本を読みたい。『マザリング・サンデー』を、読みたい。
しかしそんな余地はなく、ずっと仕込みの段取りというか、刻々と変わる必要な仕込みの状況、明日、あさって、しあさってのことを考えながら、それではいつ何を仕込むことになるだろうか、というような、仕込みの計算みたいなことがグルグルと渦巻いていた、今晩やるべきこともどんどん増えていった、こなしていった、閉店して、頭の中で一日中流れていたPUNPEEのアルバムを聞きながら今日やっておくべきことをどんどんとやって、1時くらいまで掛かった、終わったら、達成感というか、仕事をしたなあ、という感がやってきて、喜んだ。
帰宅後、Tシャツ祭りを開催して楽しんだ、楽しみながら、つまらない気持ちにもなったそのあと、『マザリング・サンデー』を読む、真野泰訳はなんだか本当にいい、とうっとりしながら読んでいたら一箇所、これは誤植か何かだろうか、どうしてもわからない、というセンテンスに出くわした、それはともかく、やっぱりいい、なんともいえず染み入ってくる感じがある、「マザリング・サンデー」とルビを振られる当該の2語の訳は「母を訪う日」とされていて、それだけで静かな喜びが湧いてくる。訪う。物語というか時間は、行きつ戻りつしながら進んでいくそういう恰好らしい。いい、と思いながら読み、寝た。『奇跡も語る者がいなければ』を読んでいたときも、「いい、いい」とだけ思いながら読んでいた。
平和。それはすべての日について言えること。どの日についても言える当たり前のことだった。しかし、この日はどんな日よりもそのことばが当たっていた——こんな日はかつてなかったし、今後もなく、再びある可能性すらないのである。 グレアム・スウィフト『マザリング・サンデー』(真野泰訳、新潮社)p.43
##5月20日(日) 仕込みをし、ご飯を2杯食べたらもう1杯食べたくなり、食べた。最初の2杯は納豆で、もう1杯は漬け物で食べた、満足した、それで店を開けた。
体が疲れている。5月ももう20日だ、早いなと思う、そして連綿と続いていくのだなと思う、ひとつき、ひとつきが。それは、すごいことだ、と思う。
まったくぱったり暇な始まりだったので「ちょっとドリップバッグでも」とか、なんで思ったのかドリップバッグ作成を始めたところ、そこからトントンとお客さんが来られ、働いた、夕方頃、大方埋まった店内で、本を読む人たちを見て、なんだかいつも以上にうれしくなった、僕は手ぶらで入ってくる方がいると少し警戒するところがあって、大丈夫かな、ささっと茶を一杯しばきに来られたとかかな、ちゃんと案内書き読んでくれるかな、と警戒するところがあって、という人が今日いて、と思ったら文庫本を持っていて、というのを見て、「この人も本の読める店に本を読みに来たんだ」と思ってうれしくなった、それが効いたのか、いつも以上にうれしくなった、それで「丸善ジュンク堂、紀伊國屋、ブックファースト、八重洲ブックセンター、いろいろな書店のカバーが巻かれた本なにも巻かれていない本が今ここでは読まれていて、いろいろなところから、本を読みに来てくれたんだなあ、と、なんかいつも以上にぐっときている。ほんと幸せな店だなあこれは。わっはっは!」とツイートして、そのあとまた、「今ここで開かれている本の数だけ暮らしがあって、生活圏が違って買われた本屋が違って、でも今は同じ場所を選んで、ここにいて、というなんか重なり合う物語感にやられたのかもしれない。と思った。なんにせよよいよい。やたら上機嫌。」とツイートした、実際、とても上機嫌だった、そのときはしかしブックファーストのブックカバーは見かけていなかったから噓だった、このブックカバーなんだっけ、と思ったのは、あとでわかったのはそれは三省堂だった、ブックファーストは、そのあと夜になって見かけた、この、「生活圏が違って買われた本屋が違って」というこの、違う場所で買ってきた本が今ここにいろいろ集まっているんだなあ、というこの感じは、たぶん八重洲ブックセンターのカバーによってより引き立ったような気がする、ともあれ、上機嫌だった。
そのすぐあとに不機嫌になった、不機嫌というか、怯えというか、怯えから不機嫌、という感じだった、次に来られた方がタブレット+物理キーボードで、しかし何度か来られたことのある方だったからそんなに心配していなかったら、ずいぶん長いことタイピングしていて、途中で音が気になって声を掛けて、しばらく収まっていたのだけどまた音が出るようになって、いやそもそもルール上そんなにタイピング量は許容してないですわ、というので「ルールご理解いただいていますよね」と声をまた掛けて、反応が鈍かったから案内書きを出して「ここに書いてあるので」と言って、それで戻ると、ほとんど読んでないでしょという速さで案内書き閉じて、「は? 読まないの?」と思ったらキーボードは外して画面上でタイピングし始めて、ということはルールは把握していたということで、その上でやっていたということで、なんでだろう、と思って、不穏な心地になった、しかも、ソフトウェアキーボードなら大丈夫だろうと思っていたら、タッタカタッタカやるとあれはあれで変な鳴り方がするものだなと思って、「しゃかりきなタイピングはダメ」ってことにしないといけないのかなとか思って、残念な心地だった。敬意。必要なのは周囲の人たちへの敬意で、敬意の欠如が可視化されるのは本当によくない。避けたい。
タイピングを注意するというのは久しぶりのことだった。気疲れした。快適な、時間というか、環境というか状況というのは、ひとつも所与のものではない、約束されたものではない、絶えず目を配って気を配って、必死に守らないといけない、フラジャイルなものだった。
それでも、久しぶりにこういう心地になった、こういう心地が久しぶりであるということが、ずいぶん平和になった、ということを改めて知らせてくれる。ずいぶん平和になった。進歩だった。
それなりに忙しいような感じもありながら、余裕がある感じもあり、途中途中で『マザリング・サンデー』を読んでいた。1924年の3月30日で、女はそのとき23歳だったかそこらへんで、「90歳になっても」というようなことが何度か挟まれる、その時点から、いやもっと後からだろうか、振り返られたある一日のあるいっときが、行きつ戻りつ描かれる、その行きつ戻りつの場面は、彼女がその後何度も何度も何度も何度も思い出した、その思い出しのありように近いのかもしれなかった。すっかり信頼しながら読んでいた。心地がいい。本を、もっと読みたい。
閉店し、やることは残すところショートブレッドを焼くことだった、それを、なんでだかKOHHを聞きながらやろうと思って、KOHHを流したら、悲鳴が聞こえた気がして「えっ?」と、天井のほうを見やって、なんで天井なのだろうか、見やって、それからすぐにそれはKOHHの叫び声だとわかって笑って、KOHHを聞きながらショートブレッドの生地を切り、フォークで穴を開け、という作業をおこなった、妙に強く、眠気がやってきていた。
見つめ返す彼女は涙を堪えるのに苦労した。涙を堪えないこと、涙を使うことは、なぜか、しくじることにほかならないとわかっていた。自分は気丈に、気前よく、容赦なく、最後にただ一つ贈ることのできるこの自分を彼に与えなければならない。
この人、いつか忘れてしまうかしら。こうして横になっているわたしのこと。 グレアム・スウィフト『マザリング・サンデー』(真野泰訳、新潮社) p.51
夜、『マザリング・サンデー』。涙を堪えながら、というところまではいかないにせよ、ずっと泣く手前みたいな状態にありながら、読んでいる。うっとりと泣きそうに読んでいる。
##5月21日(月) 朝、準備し、開店前、NUMABOOKSの内沼晋太郎さんと、表紙等に装画を使わせていただいた唐仁原多里さんとお会いするというか、二人が店に来てくださる、ソファで座ってお話をする。牧野伊三夫の『かぼちゃを塩で煮る』という本のことを教わり、ポチる。
開店時間になり、見るとご飯の炊飯スイッチを押し忘れていたことに気づき、やっちまった、と思い、ポチる。早炊き。
のんびりと働く。経理をする。久しぶりに皮算用ファイルを開き、試算する。最近、日々の売上に対する興味が薄く、あまり面白くない。3月に一気に頂点というか、今までで一番よかった売上を記録してから、4月に一気に落ち、5月もたぶん同じような調子で、そうか、と思う。だけで、数字であまり感情がしぼみもしなければ踊りもしない。もう今は、なんでもいい、それよりも先、先だ、という感覚になっているのかもしれない。今、売上が低調でも、それでとつぜん暮らせなくなるということは起きない、それよりも、この先どうやって売上を大きくしていくか、どうやってそれに健全に対応し続けられる体制なのか態勢なのかを作るか、そういうことのほうがずっと大事だった、そして、そういうことについて、特に考えてもいなかった。怠惰だった。
夕方、叔父が来た、「夜にオペラシティで会食があって」ということだった。オペラシティで会食、と思って、それからコーヒーを出した、帰り際、話していると補聴器を最近つけたんだということだった、4月からつけた。3ヵ月のあいだ、毎週病院に行って、少しずつ慣らしていく、今は、高周波の音を上げていて、カサカサした音がやたら耳に届いてうるさい、まだ慣れない、慣れたら、次の段階に行く。そうやって耳を少しずつ聞こえてしまう状態に慣らしていく。
補聴器をつけていると、音の方向性がわからなくなる、本来耳は、耳全体を使って音をキャッチして伝えてくるものだが、補聴器の場合、一点のマイクで拾って、それを耳の中に伝えるから、方向性がない。もっとも拾うのは真上の音だという。電車の中でアナウンスの音声が真上から来るときがいちばんびっくりする。
叔父は合唱をやっている。それもだいぶ影響あるんじゃない? と尋ねると、そうなんだ、ということだった、これまでは自分の発した声を、口の数十センチ前のあたりから聞き戻すような、そういう発声と聴取の運動というか連動というか調子があったが、補聴器をつけながら歌うと、イヤホンで音楽を聞きながら一緒に歌うような歌いづらさがある、外して歌いたい。
夜から、ちょっとずつ『マザリング・サンデー』を読みながら暮らした。
「彼女は部屋の中に戻り、服を拾い集めたくなるのを我慢する。二人で入っていたベッドを見る。」という一文に当たった瞬間に、岡田利規の『三月の5日間』を思い出した。あの感触が、消えてしまわないように、と祈る気持ちを、思い出した。
夜、まったくの暇。誰もいないとき、近所に住んでいるというおじさんが来られる、紙幣やパスポートを作る会社なのか、造幣局とかなのか、に勤めているという。好きな映画は『ゆきゆきて、神軍』と『鬼畜大宴会』との由。息子さんは高校3年生。読書をしても現代文の成績がよくなるわけではない、というのが持論。
9時には誰もいなかったか。ぽやぽやと、本を読んだり、読まないでネットを見てうんざりしながら過ごした、11時なったら飯を食った、それで出て、どこかで酒を飲みながら本を読もうと思った、そう思うと気持ちがウキウキした、行こうとした店は閉まっていた、残念だった、それでビールを買って家に帰った、ミックスナッツを食いながら『マザリング・サンデー』を読んだ。
ほとんど二十世紀と同じ長さを生き、自分でもたぶん十分に見聞し、十分に書きもした人生だったと思えるようになる。そして上機嫌で言うことになる。二〇〇〇年まで持たなくたって構いません。ここまで持ったのが不思議なくらいですから。わたしの人生には「一九」の字が刻まれているのです。一九なんて、いい歳じゃない? と、顔をほころばせる。 グレアム・スウィフト『マザリング・サンデー』(真野泰訳、新潮社) p.120
「19」は、いい数字じゃないか? SAKANAの「19」を思い出さざるをえないフレーズだったし、その思い出しは豊かな思い出しだった。19歳。48歳。
四十八歳になって、有名で。『心の目で』。あきれたり、憤慨したりする人もいた。まだ、一九五〇年だった。二十年後だったら、おとなしいものと思われただろう。しかも——悪いことに——「女流小説家レディー・ノヴェリスト」の手になるものだった。「女流小説家レディー・ノヴェリスト」? こんな言い回し、どこから来たのだろう。淑女レディーだなんて、わたしの生まれを知ってるのだろうか。
四十八歳になって、有名で、夫に先立たれて、子どもはなくて、孤児として出発した人生の半分も来てなくて。 同前 p.28
『奇跡も語る者がいなければ』でもそうだったが、この前か後にも「そうして」を繰り返し配置する箇所があったのだけど、リフレインさせる訳が気持ちいい。高まる。泣きそうになる。
##5月22日(火) ゆっくりいくらでも寝ていい、と思っていたが12時前に目が覚めた、すっきり寝た感があった。コーヒーを淹れ、『マザリング・サンデー』。後年のことが徐々に表にせり出してくる。悲しいが、力強い、頼もしい話だった。読んでよかった、訳者あとがきが、訳者がこの作品のことをとても好いていることがよく感じられるもので、率直で、いい言葉がたくさんで、とてもよかった、『ウォーター・ランド』も読みたくなった。
それから『収容所のプルースト』を読み始める。とてもいい。なんというか何もかもを奪われて強制労働させられる日々で、講義という、人々がそれぞれに有している知の提供みたいなものが、生き生きとした生を少しでも取り戻す役割を果たした、ということに感動する。疲労困憊しながらも、人々は教室と化した部屋に押し寄せ、話を聞く。論じている当人も、プルーストを論じているというよりも、「わたしがなるべく正確に描こうとしたのは、プルーストの作品に関する記憶でかない」と言う。
だから、これは言葉の本当の意味での文学批評ではなく、わたしが多くを負っていた作品の思い出、わたしが二度と再び生きて読み直すことができるかもわからなかった作品についての思い出を提示したものである。 ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』(岩津航訳、共和国)p.14
思い出の提示。それはなんていうか、いちばん大事な、いちばん切実な、いちばん美しいことである気がする。コンラッドの名前が挙がる。『マザリング・サンデー』でも、コンラッドが出てきた。彼女は屋敷の読書室で、読書の喜びを知っていった。
プルーストは当初、巻分けや章分けや改行を一切排して本にしたかったらしい。しかしさすがに断られ、であるならばと、まったく適当な箇所でぶった切って分けたらしい。好きになった。読んでいると、『失われた時を求めて』をまた読みたくなる、がぜん読みたくなるが、だいぶ踏ん切りが必要な気はする、読み始めることは、いつだってできる。読んだのは10年前か。どうにか読み切ったのは。
プルーストは遅れて到着し、ボックス席の隅に座ると、舞台に背を向けたまま、しゃべり続けました。翌日、公爵夫人は彼に言います。もしオペラ上演に興味がなかったのなら、わざわざボックス席を貸し切って、あなたに来てもらうまでもなかった、と。プルーストは優しく微笑み、これ以上ないほど正確に、舞台と劇場で起きていたことを話し出し、誰の注意も惹かなかった観客の細部まで付け加えました。「どうぞご心配なく。作品のこととなれば、私にはみつばちなみの予知能力が備わるのです」。プルーストの感受性が十全に実現されるのは、文学的な仕事のなかにおいてなのです。
プルーストは、出来事に対して、遅れて、そして複雑に反応します。たとえば、ルーヴル美術館を訪ねても、プルーストはすべてを見ていながら、何一つ反応を示しません。しかし、その晩、ベッドに横たわると、感激のせいで本当に発熱してしまうのです。彼の感受性は彼の友人たちよりもはるかに強いのですが、その反応の仕方は違っていて、別の時間に発揮されるのです。 同前 p.38
昼寝。すっきり寝たと思っていたが、昼寝と思って目をつむったらいくらでも眠れるようだった。
夜、ひきちゃんとバトンタッチ、する前、エゴサーチをしたら『読書の日記』が何かに登録されたらしく、さっそくシェアされるツイートを見かけて、「ちょ、ちょ、まってまって早い早い! こっちまだだから!」と勝手なことを思った、クマの表紙が映っていた。それで、ということは、もうすぐさま告知の時が来る、となったとき、あ、告知をするならば、このタイミングでオンラインストアに誘導しなければ、そしてTシャツもあることを周知せねば、となって、てことはてことは、てことはてことは、あれを用意して、これを整えて、あれを調べて、あれを撮って、と、やらないといけないことがとつじょ目の前に山積した、なんて後手なんだ、後手だったんだ、ということに気づき愕然とする。内沼さんは明日あたりにイベントと併せて告知をするということだった、ということは、タイミングを合わせるなら、遅くても木曜に告知だろう、そこまでに、すべてを最低限の形、整えないといけない。どうしよう、と思った。自分の能力の低さみたいなものをまざまざと知ることになった。
努めて早い時間、寝。
##5月23日(水) 5時15分起き。新宿に出、初めてニュウマンのバスターミナルを使う、羽田へ。第一ターミナルで降り、7時55分発の飛行機に乗り、山口へ。
先週、三宅唱の新作インスタレーション『ワールドツアー』がまだやっている、ということに気がつき、というかSNSでの三宅監督の投稿を見て、そうか、やっているんだ、行くのなんて無理って思っていたけれど、無理なんだろうか、いや、無理でない。と初めて思った。なぜかJALカードをメインで使っていて、飛行機に乗りもしないのに、無駄にマイルが溜まっている、それですーんと行けてしまう。そう気づき、よっしゃ、あたかも「ちょっと行ってきます」で山口だ、次の月曜だ、と思って、しかしマイレージポイントの航空券への交換は4日前くらいまでしかできない、という事実に当たり、次の休みの水曜日に行くことにした。すーんと、日帰りだ、気軽に山口に行っちゃおう、そういう心地だった。『アルテミス』を読んだのは、ポチったのは、その「月曜だ」となったときだった、山口に行くのなら、三宅唱の作品を見に行くのなら、アンディ・ウィアーだ、道中に読もう、と思ってポチった、書いていただいた推薦文で『火星の人』が言及されていた、その流れだった、でも月曜はかなわないことになり、『アルテミス』はすでに読まれた。
機内ではすっかり眠り、着き、バスに乗った。山口宇部空港から、新山口を通り、山口に。山口のことは何も知らない。
雨は少し降っている、11時前くらいにバスを降り、どうしようかと思い、コーヒーを飲みたく、調べるとコーヒーボーイというコーヒー屋さんが近くにあるので、行く、コーヒーを飲む、すぐ近くの、これは事前に教わっていた魚が食べられる店のあかぎに行って昼飯として刺し身の漬け丼を食べた、とろろが満遍なく掛けられてて、というか漬けと混ざりあっているような状態で、やたらとおいしかった。
表通りを歩くのもなんだかつまらない気もし、裏道というか住宅街を歩きながら、YCAMに向かった、歩いていると、旅行というよりもただ知らない町を歩いている、という感じだった、それが旅行かも知れなかった。信号が、平たかった、初めて見る信号だった、YCAMには迷わずにたどり着いた、それで入って、きれいなところだった、上映される映画の情報を見ていたら、こんな場所はほんとうに貴重だなあ、素晴らしくありがたく重宝するなあ、仮に俺が山口に暮らす高校生大学生だったら、なくてはならなすぎる場所だなあ、誰かにとってきっとそういう場所なんだろうなあ、と思った、とてもよかった。毎時0分からということだったのでそれを待ち、スタジオBに向かった、気持ちのいい空間を抜けて、幅の広いやっぱり気持ちのいい階段を上がって、入った、借りたクッションを置いて、べたーっと座って、三宅唱の『ワールドツアー』を見た。
〔 〕のような感じで6面のスクリーンがあって、見るのは基本的に〔 の3面で、背後の3面は編集前の素材が早送りで流されているとのことだった。3つの面で基本的に違う映像が、同じ時間だけ流されて、音声も3つ分が流される。素材は三宅唱による映像日記のほか、YCAMのスタッフの人々による映像日記が使われる、いずれもスマホで撮られたもので、どれが誰の手によるものなのかはわからない。
この作品を見るのは『無言日記』を見る体験とは全然異なるもので、『無言日記』は、映されているなんでもなさそうな画面のなかで、なにかが、起こった! ということにひたすら感動する、僕にとってそういうものだったけれど、『ワールドツアー』では、ひとつの画面に向けられる注意は弱まって、絶えず他の2面を意識することになる、慣れるまで、どの画面を見るかという選択とそれに伴う排除に戸惑って、惜しいし、もったいないし、どうしたらいいのかわからなかったが、次第に、3面で展開されるなにか「構成」とか「編集」のようなものを面白がりながら見るようになった。DJ的な手付きというか。たぶん、同じときに映っているものは同じ日の出来事が多そうで、別の人が別の視点で同じ日のなにかを切り取ったときの、そしてそれをまったく同時に視聴するということの、面白さ、かけがえなさ、それに怖さみたいなものを感じた。何度か、おそらく映画祭とかで海外に行ったときのであろう、ドバイやタイの町が映るとき、他の2面ではYCAMの日常が続くとき、取り残されたような寂しい気持ちになったりもした。一方で、同じ雪の日、虹の日、雨の日、霧の日、違う場所で撮られた雪や虹や雨や霧を見て、元気づけられる感じがあった。どんどん感動していった。その感動がもっとも高まったのは同じフェリーに乗った3人の撮影者が、船内で、違う場所に立って、船内の様子を撮っている、その3つの映像が並んだときだった。少しずつずれながら、なにかキュビズムの絵みたいなふうに見える3つの面の並びを見ていると、思った。人と人は同じ場所にいることはできない、でも、人と人は同じ場所にいることができる。
上映後、というか、これは1回、1時間その場にいれば見たことになる、ということにはまったくならない作品だよなあ、と思いながらも、出て、少し歩いたところにパネル展示されていた三宅監督の日記の抜粋を隅から隅まで読んだ、とてもよかった、「愛の映画になるのではないか」というようなことが書かれていた、そうだと思った。三宅唱の映画はいつだって愛の映画だとも思った。
YCAMのなかをうろうろして、ライブラリーをうろうろして、出ると、雨は弱まっていた。椹野川沿いを歩いた。けぶった、止まった、水があった。向こうに小さな山がいくつかあった、赤い橋があった、川の両岸を結ぶピアノ線みたいなものが何本も川の上にあって、メタリックなものがぶらさがってチラチラしていた、ウシガエルみたいなものが元気に、あるいは遠慮がちに、鳴いていた、ビールを飲みたくなった、うろうろ歩いて、コンビニでビールを買って駐車場で飲んだ、それからまだ時間があった、山口駅から空港へのバスは18時5分で、あと2時間あった。
それでまたコーヒーボーイに行って、朝と同じ外の席で、雨はもうほとんど降っていなかった、ブロンディの「Heart Of Glass」が外の音と混ざった聞こえ方で聞こえてきた。コーヒーを飲みながら、『読書の日記』の告知ブログを書いていたら泣きそうになった。商品説明の文言も作った。あとは、送料について調べて、Tシャツの写真を撮れば、とりあえず始めることはできそうだった。満足し、時間にもなり、駅に行き、バスに乗った。日帰りのショートトリップはいいものだな、と思って、バスに揺られ、空港に着いた。1時間くらい余裕がある、ゆっくりういろうを選ぼう、と思って、まず喫煙所で一服をして、それから搭乗のなにかの手続きをしにJALのカウンターに行くと、暗くなっていた、機械の画面もつかない、あれ、どうして、となっていると、空港の職員の人が近づいてきて、どうかしましたか、と言うので、なんかつかなくて、と言うと、あれ、もう、最後のやつ出ましたよ、との由。
一瞬、意味がわからなかったが、JALの最後の便は19時10分に飛び立ったとのことだった、バスが着いたのは19時20分くらいだった、今は19時35分くらいだった。乗っていたバスは、ANAの最終便に乗る人たちが乗るものだったらしかった、驚いた、このうっかりに驚いた。山口駅からのバスは、18時の乗ったやつの前はたしか15時くらいだった、だから、18時は最後だった、ということは乗るべきものはこれだろう、飛行機の出発時間は19時55分だから、18時のバスに乗れば19時20分には着いて、余裕ある、そう思っていた、が、それは間違っていた、飛行機の出発時間は19時10分だった、19時55分は朝の7時55分に引っ張られての認識だった。山口駅から空港へは、バスではなく電車を使わなくてはならなかった、どうやら、16時48分山口駅発の電車に乗って、17時52分に空港の最寄りである草江駅に着く、という必要があったらしかった。
ともあれ、やってしまった、まあしかしANAがある、1万円くらいだろう、仕方がない、と思ったところ、3万5000円とのことだった、それは、ちょっと……しかしそれしかないわけだ……ほんとミスった……バカだ……と思っていたところ、JALの方が出てきて、話を聞いてくれた、聞いてくれると言っても、「いやあ、驚いたことに、うっかりしていました、自分のうっかりに驚きました」という話しかこちらはすることはないのだが。「まあもうどうしようもないですもんね、ANAで帰ります」と。
すると、本来であれば出発前でなければできないのだが、あるいはバスの遅れ等の理由がなければできないのだが、明日の朝イチの便に変更の手続きをすることができるかもしれないとおっしゃる。まさかのご提案で、それならば、山口に一泊しよう、新山口ですかね、と尋ねると、宇部新川にいくつかホテルがあるという、そちらのほうがずっと近いという。それでホテルを探しつつあったところ、宇部新川方面行きのバスが出ますよというアナウンスがあり、すると、JALの方はどこかに電話を掛け、そのバス2,3分待ってもらっていいですか、という。それで、あとの手続きはこちらでやっておきます、わかるようにしておきます、明日の、この時間の、この便です、宇部新川からの時刻表はここにあります、と、メモ書きと時刻表の記載された小さな冊子をくださり、さらにバスまで小走りでついてきてくださった。僕はなんだかもう、JALが大好きになった。
バスに乗り、ホテルを調べながら宇部新川のほうに向かっていると、近くの座席の老人が話しかけてきて、なにかを聞かれたのでわからない旨を返答すると、宇部ははじめてかな? と言われ、そうなんです、と答えた。ホテルに当たりをつけて、着く直前、老人がまた話しかけてきて、「なにがあるのかわからないのだが、どういうわけだかホテルが今日は埋まっているみたいなんだよ」と、恐ろしいことを教えてくれた。当たりをつけた1つだった全日空ホテル前で降車して、最初にすぐそばのホテルニューガイアに電話すると、1部屋だけあるとのこと。全日空のほうも知りたい、と思い、いったん保留し、全日空ホテルに電話するもつながらず、小走りでロビーまで、いやニューガイアでいいじゃないか、この瞬間にも最後の1部屋が埋まるかもしれないのに、なにを、と思いながら、ロビーまで走り、ありますか、と問うと今日は満室だという。急いでニューガイアを取った。
チェックインしに行ってチェックインしていると、どういうわけなのか、先週くらいからずっと満室が続いていて、どうしてこうなっているのか、理由がわからないという。なんだか背筋が凍るような心地が一瞬あったが、とにかく泊まれる場所を確保できたことに安堵し、部屋で各種SNS等にすいませんと思いながら「明日は15時から営業します」と投稿し、それから夕食と飲酒をしに出かけた。居酒屋で、なんか食った。山口の日本酒を2種類飲んだ。10時過ぎには眠くなり、戻り、ユニットバスでカーテンを閉めて、目をつむってシャワーを浴びていると、バスが左右に曲がるときの体の反応みたいなものが、赤い、黒い、まぶたの裏側でじっくりじっくり繰り返された。
長い時間歩いて、長い時間バスに乗った、長い、愉快な一日だった。
##5月24日(木) ホテルのベッドがやけに寝心地がよく、寝具も着心地がよく、快適に眠った、6時20分、起きた。チェックアウトし、早朝の宇部新川の町は気持ちがよかった、晴天。城みたいな建物が突き出ていた。ホテルだろうか。
バスで空港に行き、搭乗手続きをし、15分ほど遅くなった飛行機に乗って羽田へ。待っている時間、乗っている時間、パソコンを開いてずっとカタカタしていた。だいたい整った。あとは写真。それから郵送の値段の確定。
11時半ごろに帰った。飛行機に乗り慣れないので新鮮にそう思うのだが、飛んでいる時間が1時間ちょっとでも、なんやかんや時間かかるのねえ、と思う。結局5時間か。行きもそうだった。
家を出、郵便局に寄り、郵送のことを教わる、レターパック(プラスとライト)と、ゆうパック、これでいい、ということがわかる。買い物して店着。仕込みを始める前にTシャツの写真を撮った。この段階ではとりあえず、どういうものかわかればいい、という写真になった。きれいに撮れないものだ、と学んだ。わかれば今は、いい。
それから仕込みを始めたところ、途中、指を切った。すぐに水に流しながら見ると、「あ、これは、病院行った方がいいやつかも」となった。レンズ豆くらいというか、コンタクトレンズ小くらいというか……指は、提供後のアンパンマン的な方向性のシルエット……血は、たぶんずっと出ている、すぐに布巾をかぶせたから見ていないが、どんどんにじんでいく。にじみは大きくなっていく。で、徒歩1分の整形外科に向かったところ、休診。そこから徒歩2分の総合病院に向かったところ、外科の先生不在。「治療が必要そうかどうかだけでも何か助言いただけないか」とお願いしたところ看護師の方が出てきてくれて、これはね、行った方がいい、ということだった、ガーゼだけ巻いてくだすった、握っといてね、との由。受付の方が病院を探すためのサービスの電話番号みたいなものを教えてくださった、店戻り、それらに電話、最初の病院は休診。次の病院は新宿駅近くのJRの病院で、事情を説明し、総合受付から外科につながるも、先生が今診察中で、確認して折り返す、とのこと。受けていただけない場合もあるんですか、と問うと、大丈夫だとは思うが、自分の判断では答えられない、とのこと。待つだけなのももったいないので、東京医科大学病院に掛けた、またいくつか人が替わり、受けていただけるとのこと。2時ごろか。3時の開店にはまず間に合わないだろうしそもそもどうなるかわからないので店を休む旨を各所に書き込み、なんとなく煙草を吸って、出、自転車で向かう。片手を手術に臨む医者みたいな角度で曲げ、血に染まったガーゼをひけらかすような恰好で、そろそろと気をつけて自転車を漕いだ、右手だけなので不安定というか、ブレーキも前輪だけになるので、スピードが出すぎないように気をつけながら、走った、すると着いた。着信があった、JRの病院で、先生が今から手術なのでダメでした、とのことで、こちらの状況を説明し、謝意を伝えた。
病院に入り、受け付けをし、形成外科の受け付けに行くと、すぐに通してくれた。若い先生と看護師の方の二人は気持ちのいい人で、ケラケラと笑いながら、随所で痛がりながら、処置をほどこしてもらった。2箇所だけだから、麻酔なしで行きましょうか、と言っておこなわれた血を止めるためになにかでなにかを焼く処置が、とにかく痛くてジタバタした、一回では止まらず、うーん、なかなか止まらないですね、せっかくなのでちゃんと止めちゃいましょう、となって、またジタバタした。そのあと人口かさぶたみたいなもの、ガーゼみたいなものをかぶせられ、指をぐるぐる巻かれた。明日、血が止まっているかどうかの確認で、もう一度来ることになった。なんだか、明るい時間だった。三角巾で手を吊ってもらった。そのあと、看護師の方に破傷風の予防接種をしてもらった、ひと月後にもう一度するとのこと。さらに一年後にもう一度すると、向こう10年の予防になるとのこと。
処方箋は院外専用だったので、初台で受け取ろう、と思い、店に戻り、できる範囲の片付けをし、薬局。処方された抗生物質がない、近隣の薬局にもない、と言われ、もう少し範囲を広げたところ、あそこならある、とのことで、そこに行った、家にチャリを置いて、歩いて行った、散歩の心地だった。薬を受け取り、歩いているとドーナツ屋さんの看板を見かけ、入り、ドーナツを買った、歩きながら食べた、食欲がなかった、朝から何もまだ食べていなかった、なにもかもが面倒だった、なんの欲もなかった、ドーナツを食うと、甘いもの、もっと、と思い、コンビニに入って、しかししょっぱいもの、ひねり揚げを買って、くじを引いたところお茶ももらえた、帰宅し、それを広げ、ボリボリ食った。面倒だった。うんざりしていた。
そのあと少し散歩し、少し野球中継をDAZNで流し、なにもかもが面倒で、先日買った『新しきイヴの受難』を読み始めた、少ししたらウトウトしてきた、本を閉じてうたうたしていた、何時なのかはもうわからない。
##5月25日(金) 8時半起床。なんだか連日早起きが必要な日になっている、昨日もおとといも早く眠ったから睡眠時間は足りている。
バスに乗って病院に。形成外科のところで待っていると、隣のシートに座った、男性と、その母だろうか、がいて、30歳と65歳とかそんな感じの二人がいて、母のあれこれを息子がうるさく思っているらしく、「あんたは黙ってろよ」という感じでけっこうヒステリックにカサカサと怒気のこもった声を出して、不快であり、悲しい心地になる。母の出した手を乱暴に払うような動きもあって、嫌だった。
待ちながら、『新しきイヴの受難』を読む。1977年とかが原書の多分発行年で、イギリスの作家なのだろうか、舞台は今はアメリカで、アメリカはひどいことになっている。糞尿の撒き散らされた道路、暴徒と化した人々、我が物顔で動き回るねずみの大群、ハーレム地区には壁が建設されている。そんな中で、男と女が出会った。
診察の順番が来て、今日も若い先生だった、昨日は男性で今日は女性だった、こちらも気持ちのいい先生だった、軟膏を処方してもらい、あとは絆創膏をして、治っていくのを待つほかない模様。今の状態では、調理はとてもできそうもない、どうしよう、どうしよう、と思い、病院を出てすぐ横のホテルのわきに喫煙所があったのでそこで煙草を吸っていると、病院最寄りの喫煙スペースなのか車椅子の人が来て、煙草を吸いながら誰かと電話していた、今リハビリやってきたばっかりなんだよ、と、怒っていた。だからさあ、お前も、と怒っていた。僕はこういう簡単な怪我だから明るくしていられるが、それでも仕事のことを思えばうんざり暗くなるが、笑ってなんかいられない状況の人たちがいくらでもいくらでもいるのがこの場所なんだろう。見たくもない自分の本性みたいなものを見ることになるのがこの場所なんだろう。悲しくなった。反省もした。
バスに乗り、降り、なんとなくもんやりした心地だったのでコーヒーを飲むことにしてリトルナップコーヒースタンドに寄って、マキアートをお願いして、外で煙草を吸いながら飲んだ、濃いコーヒーを摂りたかったのかもしれない、それにしても食事をずっとしていない。
まあ、飲み物だけの提供ということで、開けよう、と決めた。ご飯があることでこそ、という方ももちろん、そしてけっこうな数、おられるだろうけど、読書が快適にできる場が開放されていればそれで、それこそが、という方もきっといるはずだから、そうしよう、と思った。飲食店じゃなくてよかったというか、これが僕がシェフの何か「これをこそ食って」みたいな店だったら、もうどうしようもないけれど、あくまでここは「本の読める店」だった、だからこそ、許されるというか、ありといえばありなやり方だった。それにしても不便で、文字を打つのもやりにくく、気が萎える。
家でそういった旨のお知らせを投稿してから店に行き、ゆっくり片付けをし、やる気は出ずに、もたもたとし、ご飯を、やっと食べ、悄然としながら、準備というか掃除をし、3時ごろ、開けた。
だらだら、ゆっくり、のんびりしていた。夕方ごろ、床屋のおかあさんが「お見舞い」と言って上がってきてくれて、怪我なんてするもんじゃないですねえ、という話をヘラヘラと愉快にしていたところ、お客さんが来てくだすった。知ったうえで、来てくだすったらしかった。ありがたい。そして、とても、とにかく、指は不便だった。いつもの20%くらいの速さでしか動けない感じがある。これは、こういう営業にして正解だった。とても、多くのことには対処できない。
夜になり、『読書の日記』の告知をあれこれに投稿していった。そうしたらうれしいリアクションを見かけたりして、そうしているうちにいくらか感極まるみたいな心地になった。いくらか泣きそうな。
Facebookの個人の投稿では「うーん、なんだか、いろいろなところに告知の投稿とかしていたら、いろいろうれしいリアクションを見ていたら、なんかちょっと感無量な心地がやってきたな・・・「小説家になりたい」って言ってた大学生のころの自分に聞かせてあげたいよ・・・小説でなく日記だけど、今の僕にとっては日記のほうがずっと小説だから、だからというか、なんかわからないけど叶った的なそういうあれなんじゃないの? という・・・いや叶うとか叶わないとかは全然違うというか、そういうことはどうでもいいんだけど、なんかこう、よかったねっていうのは間違いなくそうであるはずで、よかったね、って言ってあげたいし言ってくださいなので全員買ってください!」と書いた。
夜、何人かの方が来てくださる。心配とかをしてくださる。なんだか、あたたかい気持ちになった。
それにしても不便だ。左手は極力使わないで右手ばかり使っている、右手が疲れそう。
『新しきイヴの受難』を少しずつ読んでいる。男はすべてを放棄して砂漠に向かった。なんか捕獲されて引きずられていた。
夜になるにつれて、閉店が近づくにつれて、シャワーを浴びて、傷口をきれいにして、というその場面を想像して、とても気が重くなっていく。何度も想像しては、「いたっ!」となる。ゾクゾクする。怯えている。露骨に怯えている。
閉店したが、帰る気にならず、だらだらとネットを見ている。おめでとう、おめでとう、おめでとう、たくさんのリプライをもらい、うれしい。たしかに、おめでたいことなのかもしれなかった。
重い重い腰をあげて家に帰り、風呂場に行き、しかしシャワーのあいだは左手は天井につけるような格好で掲げて、そのまま体を洗って出たから、声を出して笑った。予期される痛みに怯え、踏ん切りがつかなかったらしかった。予防注射を受ける前の、歯医者に行く前の、子どものような。しかしきれいにしないといけないので、避けるわけにはいかないことなので、洗面台で、そろそろと、ぬるま湯を流した蛇口の下に手を当てて、少しずつ、指先を保護しているものを取っていく。もう、指は出た、患部は、露出した、が、痛みは、予期していたような鋭い痛みは、生じなかった。あるのは鈍い痛みで、それはまったく問題なかった。なんだ、こんな簡単なことだったか、と思って、ふと傷口を見ると、「うわ」という気持ちになった、これ思ったよりほんと深いぞ、という。なんか見えてない? という。もう見ないことにした。よく乾かし(時間を置くという方法で)、絆創膏に抗生物質の軟膏を塗って、貼った。早く、本当に早く、治ってくれと、それだけ思った。今この人生に自分が望むことは、指が早く治ることだけだった。
『収容所のプルースト』を読んで寝る。