読書日記(75)

2018.03.11
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#3月3日 開店前はできるだけなにもやりたくない。なのでご飯を食べたりコーヒーを飲んだりをできるかぎり優先しておこなうわけだけど、今日はいくつかやらなければならないことがあった、しかし「開店してからやればいいや」といくつかのタスクを残して優先してご飯を食べコーヒーを飲んだ。土曜日だということを忘れているわけもないのに、いったいなんの余裕なのだろうか。余裕を持っていいと思う根拠がまったくわからなかった。ここのところの週末は忙しくなる可能性がずいぶん高かったのに、いったいなんなのか。
開けてみると、忙しくなり、ひいひい言いながら働いた。
すると夜、猛烈に焼きそばを食べたくなった。麺だけならば、コンビニにも売っていそうだった。しかし豚こまはないだろう。炒められ、ソース味になった豚こまが食べたかった。どうしたものかと頭を抱えた。しかし解決策があった。おしぼりを買いに、いずれにせよ早晩、肉のハナマサに行く必要があった。なので肉のハナマサに行き、もろもろを買って、家で焼きそばを作って食えばよかった。野菜は、店にあるものをいくらか持っていくことにしてリュックに詰めた。それで肉のハナマサに行き、おしぼりと、豚こまは小さいサイズがなかったので、薄切りの豚バラ肉にして、これにしても決して小さくはなかったが、冷凍すればいいと思いそれにして、焼きそばの、麺だけのやつを2つ、買うことにした。レジで、それが打たれているとき、あ、ソース、と思い、その麺をキャンセルさせてもらい、マルちゃんの3玉入りのやつにした。
帰宅し、フライパンで麺を2玉まず焼き、ほぐし、皿に出した。焼いているあいだに玉ねぎと人参を切り、白菜をちぎった。空いたフライパンに油を引き、それらを入れ、肉を入れ、炒め、酒を入れ、蓋をして蒸し、蓋を外し、水分を飛ばし、粉末のソースを入れて混ぜ、麺を戻し、混ぜ合わせ、皿に移した。店からやはり持ってきた、ラップに包んだご飯を、乗っけた。食ったら腹が、膨れた。
寝る前、『圧力とダイヤモンド』を読み始めた。
##3月4日 見たい映画が増えてきた感じがあり、忘れるので、フィルマークスを用いようと思い、見たい映画を登録することにしたのは先週くらいのことだった。イーストウッドとスピルバーグの新作、それから恵比寿ガーデンシネマで予告編で見た台湾だったか香港だったかのやつと、長江のやつ、それから、あれはなんだったっけ、ユーロスペースでやるらしいやつ、雨傘とアイスピックだったっけ、そう思い「雨傘」で検索しても出てくるのはシェルブールで、それじゃ「アイスピック」は、と入れてもめぼしいものは出てこない。検索の末、『アイスと雨音』だったことがわかった。
朝、準備をしながらPUNPEEのアルバムを聞いていた、起床時のアラームで毎日「Lovely Man」が流れていて、止めずに聞き続けてしまうことがあり、今朝がそうだった、それで店に行ってからも聞きたくなって聞いた。いつ聞いてもよくて、今日は「夢のつづき」がとてもグッときて、2度聞いた。もう一人はなんていうラッパーなのだろう、と調べてみると原島“ど真ん中”宙芳というDJということだった、PUNPEEと二人で板橋兄弟というユニットをやっているそうだった、そのラップがなんだかとてもすごくすごいよかった。行けたら行く、ってのは噓じゃない。
始まりは忙しかった気がした。わたわたしながらこなしていた。僕はこの店にいつも恐れを感じながら立っている。この美しい時間を壊してはいけない。守らなくてはいけない。ビクビク怯えながら立っている。なにごともない日だった。よかった。
途中、昨日推敲した読書日記の更新をして、それから改めて読み直して、いくらか直したりをしていた。先週は、かつてを思い出すことの多い週だったようだった。なにかを思い出している文章を読むと僕は感動するのか、なにか感動していた。
夕方でピタッと止まり、明日やろうと思っていたカレーの仕込みを急遽始めたりしていた、疲れていたが、始めたりしていた。そうやって仕事をつくってみてもなお、夜は暇だった。
今朝、郵便ポストに本くらいの厚さの茶封筒が入っていて、なんだろうと見ると本だった。花田菜々子さんからというか河出書房新社からというかで、花田さんの新刊『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』のプルーフ版ということだった。プルーフ版ってなんとなく聞いたことはあるけれど実際なんなんだろうと調べてみると「事前の宣伝に使うために最終稿前の原稿を使って、仮に印刷・製本した見本本のこと」とのことだった。なにが保証されているのだろうか。
花田さんは朝日出版社から出た、僕も原稿を書かせていただいた『まだまだ知らない 夢の本屋ガイド』の企画者というのか、の方で、という接点があった、それで送ってくださったようだった。もともとはWebで連載されていたもので、だいたい読んでいた。たしか連載の途中で「本になります」ということがなにかで告知されているのを見て、これはまたすごいスピード感だなと思っていた。
それで、暇で、やることもなく、キューバの小説という気分でもなかったので、ちょうどよく目の前にあったので、開いた。最初の章で笑って先に進めなくなって閉じた。そのあとまた読み始め、それでどんどん読んでいった。
そうすると次第になにか、人ごとじゃない、というような感覚になっていった、これはWebで読んでいたときには感じてはいなかった気がするものだった。人ごとじゃないというか、どうにかしようとする人の物語というか、仕事をする、価値を生み出す、そういうことを、試行錯誤しながら実現していこうとする人の物語というか、生きる場所を見つけようとする人の物語というか、よりよくあろうとする人の物語というか、それはだから日々、くよくよしたり迷ったりうんざりしたり未来がまるで見えない気分になったりしながら少しずつ、たぶんたしかに、しかしそれにしても少しずつ、前に進んでいる、進もうとしている僕の、それはだからこれは僕の物語でもある、みたいな、なにかそんな気分になっていった。
途中でいくらかのオーダーをこなしたり、カレーの作業をしたりしながら、なんだか泣きそうな気持ちが高まっていったというか、なにか高ぶっていくような感じがあった。続きをどんどん読みたかった。
夜、なにか悲しい、塞いだ気持ちになっていった。ビールを2本飲んだ。なんで悲しくなっていたのか、暇だったことくらいしか思い浮かぶ要因がないのだが、だとしたらなんと脆い精神なのだろうか、というところだった、呆れた。が、それを繰り返して生きていくほかなかった。
帰宅後、『出会い系』の続き。読み終わった。
眠くなかったので『圧力とダイヤモンド』を読もうかと思ったが、寝た。
##3月5日 昼前に起きた。雨が降っていた。煙草を吸った。コーヒーを淹れて、原稿直し200ページをおこなった。僕が、僕だけが楽しむためのものならば本になる必要性なんてないのだけど、だから人も面白いと思うといいなと思うのだけど、やはりなによりも日記は自分にとっていいものだった。興味や気分の変遷、書かれてはいない、思い出すこと。そういうものものに満ちている。ウルフの日記を読み、テジュ・コールを読み、『富士日記』を読み、『10:04』をまた読み、店の不調に不安を覚え、投資信託に興味を覚え、2店舗目を作ることを思いつき、すぐ忘れ、夏から秋になっていく。
原稿直しをするとご飯を食べることにしてうどんを大量に食べた。食べながら、食べたあと、『圧力とダイヤモンド』をしばらく読んでいた。昨日『出会い系〜』を読んでいたら名前を見かけたジョン・クラカワーの『荒野へ』、ああいうものをなにか読みたい気がしていたが、それがなにかはわからなかった。詳しい人に教えてもらいたい。詳しい人というか、引き出しを多く持っていてすぐに開閉できる人、というか。
おそろしいことに眠くなり、少し昼寝した、起きて、雨が降っていた、店に行った。
夜、極度に暇。僕がおこなったのはいくらかの仕込みと、チーズケーキをお出しすること、ハーブティーをお出しすること、定食、それからハーブティーをお出しすること。それがすべてだった。
原稿直し、残り100ページほどをやっつけた。最後までいったら、なにも終わっていないのに、妙な感慨みたいなものがこみ上げてきて困った。なにも終わっていないwww それにしてもやっぱり日記というものはいいものだった。
「分厚い分厚い紙の束の受け渡しをしたい」と書かれていた。分厚い分厚い紙の束は、思った以上に重かった。よれよれになっている初校を見たりすると、交換、交換を経て疲れていって、そして仕事は少しずつ進んでいる、ということを、なにか証明するもののようで、気分がよかった。
誰もいなかった。本を読もうかと思ったが、そうか、確定申告の書類作成をすればいいのではないか、と思い、やることにした。どれだけ時間が掛かるか見てみよう、と思い、コーヒーを淹れ、スタート、という感じで始めた。プリントアウトまで1時間半だった。減価償却費のところで少しと、やはり減価償却費絡みの貸借対照表の「建物附属設備」や「工具器具備品」のところで手間取らなければ半分の時間でできた気がする。日常的に帳簿をつけていれば実に簡単なものだった。
夜、『荒野へ』的なものへの欲求は「なにか山の本を読みたい」に変わり、強烈に読みたくなったため明日本屋で買うべく、じゃあ何を読めばいいの、というので調べていると『垂直の記憶』というやつか『凍』というやつが間違いなさそうな感じだった、どちらも同じ登山家夫婦の話らしかった。
その流れで、それは検索したところ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」の記事がヒットして、ここならきっとすごいものが知れるだろうと思って見に行って知ったのだけど、その流れで、「スゴ本」の他の記事を見に行ったらテジュ・コールの『オープン・シティ』が最新のものだった。読むと、そうだよな信頼できない語り手なんだよなあそうだよなそうだよなと思って読んでいると、「彼のように記憶したい記憶を信じればよいのか、いま受け取った結果でもって振り返ればよいのか、分からなくなる」という記述のところが、スマホの画面の塩梅もあったのだろうけれど、「信じれば」の「じ」と「結果でもって」の「も」が浮き上がって、「もじ」に見え、「モジ」は『オープン・シティ』においてまさにいろいろを分からなくさせる非常に重要な登場人物だったから、その、読みたいものを読もうとする自分の頭というものを面白いものに感じた。
『圧力とダイヤモンド』を読みながら寝。
##3月6日 マリナーズがイチローを獲得する模様、というニュースを見、よかった、と思った。このままどこも手を挙げなかったら、万が一ここで現役が終わっていたら、あまりにさみしいというかバカみたいだと思っていたため、よかった。
区役所の派出所みたいなところでマイナンバー記載の住民票を発行してもらい、店。米と納豆食う。コーヒー飲む。
丸善ジュンク堂。昨日決めたとおり『垂直の記憶』を買う。アプリで場所を調べると「地図 壁面:ヤマケイ文庫」とのことだった。山コーナーにぴったりの場所だった。
それから来週の読書会のときには少なくとも買っているわけだから今買っておいてもよかろうと思い、ジョン・ウィリアムズの『ブッチャーズ・クロッシング』を取った、それから『圧力』が終わって『垂直の記憶』が終わったら読むのだから今買っておいてもよかろうと思い、マリオ・バルガス=ジョサの『マイタの物語』を取った、その3冊を買った。
ユーロスペースに行った。松居大悟『アイスと雨音』を見た。
前に予告編で見て見たかった映画だった、きっとエモいんだろうなと思っていたが、エモかった。ワンカット、というのは聞いていたが、演劇を作っていく人たちと、演じられる演劇がシームレスに続いていき、というか突然演劇が始まって、済んで、始まって、公演1ヵ月前からだったろうか、途中途中で3週間前、2週間前、2時間前、みたいになっていき、みたいなつくりだった。途中、外に出て走っていく場面があってそれをカメラも走って追いかけて、三半規管がやられた。酔った。
とにもかくにも主演の森田想だった。ものすごく魅力的だった。いい顔をしていた。いい表情をしていた。いい動きをしていた。けっこうひとつのクライマックス感のある、3人で演じる決定的な場面での動きに痺れた。自由な踊りを踊っているみたいだったし、「やって」と強い声で命令しながら向こうを指差すところが僕が特に好きだった。
最後、さすがにこれはものすごいエモ度だなといくらか笑っちゃうような気分になったのだけど、その最後の最後、カットの声がとうとう掛かり、舞台の上の若者たちがその体から緊張を解いて、終わって、抱き合って、たぶん泣いたりしていて、という、役の外の人間になった(ように見えた)ところで一番感動した。70分をやりきった感じに、わあすごい、おつかれさま、すごかったよ、と思った。感動した。なにか、羨ましさのようなものを感じるのを感じた。
東急ハンズでいくらか店に必要な買い物をして、税務署に行って確定申告書類を提出して、それからフグレンに行って『圧力とダイヤモンド』を読んだ。すると読み終わった。なんとなく雑な読み方になってしまったというか、読みたかったのは『垂直の記憶』だったのだけど、フグレン滞在予定時間の1時間ちょっとを考えると、『圧力とダイヤモンド』をちょうど読み終えられそうで、それならばと読んでしまって、そのまま終えてしまって、なにかそれは本に対してやっぱり雑な向き合い方だったと思った。そもそも僕はこれをどれだけ楽しもうとしていたのだろうか。なんとなく得意ではない感覚が最初からあった、微妙な寓話感というか、微妙なSF感というか、微妙なハイテンションというか、だった。
フグレンではソファで横に座っていた女の子二人が葬式の話をしていて、片方が「お母さんも子どもなんだ、誰かの子どもだったんだ、って初めて思った」と言ったらもう片方がゲラゲラと笑って、ウケる、笑って、え、その発言って笑うところ!?と思って、なんだかもんやりとした気分になった。ひっきりなしに人が入ってきて、レジまで列ができている時間が何度かあった。
ふと『出会い系〜』のことを思い出していた、なにか共闘者のような感覚を勝手に感じながら読んでいたのだけど、それは本を紹介する活動をしながらこれから仕事どうしよう、どうやって生きていこうとあれこれ思う、語り手の姿勢と行動に対してだと思っていたけれど、それだけではなく、その「出会い系」、コーヒーミーティングというマッチングサービスらしいのだけど、そこで人と出会って束の間のコミュニケーションを取ろうとしている人たち、だからこの本で30分ずつ、現れては消えていく登場人物たちの多くが、それが方法として上等なものなのか適切なものなのかどうかは僕にはわからないけれど、どうにかなにかよりよくありたい、なにか行動しよう、みたいな人たちだったのだと思い至り、つまり書き手も語られる人たちもみな何かしらストラグルな人たちであった、ということに気がついた。道理でというか、じわじわと高まっていくようになにか感動というか切羽詰まっていったのは、そういうことだったのだろうと思った。
北千住に行った。北千住に行くのはたぶん3回目で、これまで2度はどちらもシネマブルースタジオに映画を見に行った。初めて行ったのは大学生のときで『アニー・ホール』を見に行った。次はおととしだったか、そのくらいのときで、『親密さ』を見に行った。
今日は演劇だった。その前に夕飯だった。スリランカカレーのお店タンブリンカレーに行き、カレーを食べた。ジンがいろいろとあり、なんという名前か失念した、スパイスの味がはっきりとするジンをソーダ割りで飲んだ、それは「カルダモンだ!」というようなジンで、すごくおいしかった。つまみでチキンのピクルスという、それはどんなものなのだろう、というメニューが黒板にあったのでそれも頼んだ。すごくおいしかった。それから出てきたカレーも、すごくおいしかった。僕はこういういろいろの種類のおかずがのっているカレーというものを食べた経験がたぶんほとんどなくて、それで新鮮だったのだけど、これはめちゃくちゃいいものだなあと思いながら食べた。なんだかこれめっちゃ俺大好き、というカレーだった。毎日食べたい。
演劇の会場はBUoYだった。見たのはジエン社の『物の所有を学ぶ庭』だった。
いくらか前にお客さんがこの演劇に携わっているということでフライヤーをくださり、それを見て、なんとなく最近立て続けにBUoYの名前に触れて、行ってみたかったこともあって行くことにした。この劇団がどんななのかはまったくわからなかったが、なんとかという作品が岸田國士戯曲賞の最終選考に残り、みたいな記述を見て、きっと何かしらではあるのだろう、みたいな、わかりやすい権威主義的な基準で行動が支えられたかっこうだった。それからプロフィールのところで「同時多発的な会話」みたいなことが書かれていて、僕はそういうものはきっと見たことがないから、それはちょっと見てみたい、とも思った、というのはあった。
それで行った。BUoYは、入り口の前に灰皿があったのでまず煙草を吸っていたのだけど、そこから見える景色が見たことのない不思議なもので、まずそれがとてもよかった。北千住。微妙に高いところを通る線路、それをくぐるためくだっていくため視界から消えていく車道、その手前の今立っている歩道というには幅広の道、車道を隔てて向こう側に渡るために作られている歩行者と自転車用の小道は、線路にぶつかるところで数段の階段とスロープがあってそれを上がると線路に沿って左右に分かれるように通っていて、それも見た記憶のない作りだった。あそこに立って、すぐ横を通過していく電車、眼下を流れていく車、というその中にいるのはどんな見え方がするものだろう。それから線路の向こうに広がるわりと低層のマンションがいくつかと、少し顔を違う方向にやると今度は高層の建物がいくつか目に入り、その向こうにはスカイツリーまで見えた。と、線路は線路だと思っていたもの一本だけではなく、それと斜めに交差するような、でもそれよりもう少し高いところを走っているものもあって、見ていたら3本の電車が同時に走った。おかしな、愉快な景色だった。
で、BUoYに入った。すごく魅力的な建物だった。トイレとドリンク交換のために上がった2階は、まずトイレがすごかった、あんな扉は見たことがない、という扉で、かなり高い天井までぴったりと扉だった。開閉すると細長い壁が動くようだった。
それでドリンクのカウンターのところでビールをいただいて、すでにお酒も入っていたし、これから90分の公演があるのにまた入れるのもどうなんだろうと思いながら、北千住という町、BUoYという箱、それが僕になにか遠出の喜びというか非日常的な気分をもたらしたらしく、ビールをいただいて、時間が迫ってきたので地下におりた、地下もまたこれはすごい空間だなあ、というもので、モヤウの地下室を思い出した。2階は元ボウリング場、地下は元銭湯、の廃墟、だったということで、とにかくかっこいい場所だった。
演劇は、これはなんというか、見ることができて本当によかったです、教えてくださって本当にありがとうございます、というものだった。とにかく楽しかった、とにかく好きだった、とにかく信頼できた、とにかく心地よかった、とにかくエキサイティングだった、とにかく真摯だった、とにかく丁寧だった、とにかくやさしかった。すばらしい作品だった。
最初はその同時多発的な会話の、同時に起こり、両方を漏らさず聞こうとするのが難しいような同時の起こり方で、それがピタッと止まったり、同調したり、他の会話どうしが不思議に響き合ったり、という、そのアンサンブルみたいなものへの興奮で「わあ」となっていたのだけど、その興奮はずっとあって、ずっとそれは目にも耳にも愉快であり続けたのだけど、それよりも、よりも、ということは全然違うのだけど、そういうことだけじゃなくて、話されていることがとにかくよかった。所有するとはなにか、ということを妖精さんに人間が教える、という話、というのも雑すぎる、とにかく妖精さんは所有の概念がいまいちわからない、それでそれについてたくさん話す。それがとにかく、真摯で丁寧で、誰も断罪しない、なにも断定しない、決めつけない、そういう姿勢がひたすらあたたかくやさしかった。
このあたたかさややさしさ、真摯さ丁寧さというのは滝口悠生の小説とも通じるもののような気がした。というか僕にとってはそういうところでどちらもすごく信頼できる、ということなのだろうと思った。
役者も、みな本当に魅力的だった。どの人も完全に魅力と強度を備えてそこに立っていた。『アイスと雨音』を見ながら森田想に目を奪われながら、やっぱりスクリーンに耐えられる顔とそうじゃない顔があると思うんだよな、森田想の顔はその強さが明確にあるんだよな、ということを思っていたのだけど、舞台もそうじゃないかと思うのだけど、今日のこの演劇の何人だったかな、8人とかかな、はどの人も舞台の上に完全に魅力と強度を備えて立っていた。全員を僕は好きだった。
なにが話されていたのか、知りたくて、読みたくて、戯曲売ってたりしないかな、と思っていたら上演台本が売っていたので買った。
台本をちらちら読み読み、ああこれ好きなセリフだったなあ、など喜びながら電車で帰り、家に帰り、家には入らず、店に向かった。ひきちゃんが体調不良ということで早く帰ってもらうことにして10時過ぎ、店に到着し、バトンタッチした。
なんやかんやと2時間しっかり働いた。
とはいえなにかやっぱり休みの日というモードが働いていて、というか休み、という刻印を押したかったのか、終わったらどこかに飲みに行こう、ビールと揚げ物、それで『垂直の記憶』を読む! となにか楽しみにしていた、前に行ったアイリッシュパブがよかろう、と思っていた、調べたら1時閉店だった、いくつか思い当たるところを調べたがどこも1時には終わった。それで諦めて帰宅することにしてビールを買って帰った。
で、読み始めようかと思ったが、今日の日記を書いておきたい、と思って書き始めた、書くことが多くあった、これは書き始めたら長くなるし明日にしようかなと思った、しかしそれで『垂直の記憶』を読み始めた場合、すごく期待しているらしい、読み始めたらどんどんどんどん読みたくなるに違いないと思っていて、そのモードは絶対に明日も持続する、そうなるといつまでも今日の日記を書くことができなくなる、そう思ったため日記をまずは書くことにした、それで書いていた、いる。3時を過ぎた。ジエン社、本当によかったな、と何度も思って、それからTwitterで検索して人のツイートを見たりして、それから役者の名前でググったり、フライヤーにあった、でも読んでいなかった「長いあらすじ」を読んで、ああ、本当にいいなあ、と思ったりしていた。3時20分。さあ、ビールとポテチを用意して、『垂直の記憶』を読み始めようか。
##3月7日 4時半まで読んでいた。山をたくさん登っていた。胸をゾワゾワさせながら読んでいた。たいへんな山の登頂後に漏れた「それほど下界は必要でないように感じるが、生きて帰るために歩く時間だ」という言葉の、それほど下界は必要でない、というのはすごいパンチラインだった。
かりに僕が山で、どんな悲惨な死に方をしても、決して悲しんでほしくないし、まだ非難してもらいたくもない。登山家は、山で死んではいけないような風潮があるが、山で死んでもよい人間もいる。そのうちの一人が、多分、僕だと思う。これは、僕に許された最高の贅沢かもしれない。
山野井泰史『垂直の記憶』(p.178,179)
昼前起床。コーヒーを飲みながら『垂直の記憶』をいくらか読み、それから家を出てNUMABOOKSの事務所へ。直した原稿を渡し、少しお話をし、辞し、帰って焼きそばを食おうかとも思ったがカレーづいたらしく、すぐ近くのバーラティに行ってカレーを食べる。名前を覚えられない名前のカレーだった、高野豆腐的な、肉を擬したようななにかの入ったベジなカレーだった、ナンというものを久しぶりに食べた、おいしくて、おかわりをした。ゆっくり食べながら『垂直の記憶』を読み進めた。家に帰り、まだまだ読んでいた。ゾクゾクしながら読んでいた。すると読み終わった。
すぐにバルガス=ジョサに行こうかとも思ったが、違う気がし、昨日買った上演台本を頭から読むことにした。
ハリツメ「あの、だから、さあ……なんでいつも触るんです」
鈴守「ああー」
ハリツメ「あの、駄目なんで。……前も教えましたよね。鈴守さんに。触んないでくださいって。」
鈴守「はい」
ハリツメ「どうして、なんか、また触るんですか。すごく近いんですか。」
鈴守「触ってるのかさわってないのか、あんまり自覚がないんですよね。……声を、かけるじゃないですか。声が今、先生にかかってて、こういうのは、先生の中では、触る、じゃないんですかね」
鈴守、また触る。
鈴守「でもこれは、今、触ってるんですよね。……あんまり違いがわからなくて」
ハリツメ「こんなことじゃ、この街でくらせないですよ。(触られている)」
鈴守「人に触ると、暮らしちゃいけないんですか」
ハリツメ「前にも、それは……教えましたから」
山本健介『物の所有を学ぶ庭』(p.29,30)
大好きな場面だった。
クルツ「(冷めたお茶を渡す)冷めたお茶なら飲めるでしょ」
鈴守「(お茶を受け取り)熱いお茶じゃなくてもいいんですか」
クルツ「かつて熱かった事があったんなら、いいかなって」
山本健介『物の所有を学ぶ庭』(p.50)
かつて熱かった事があったならいい、この転向は、昨日見ているときも笑いながら、とても感動したものだった。やさしい。
最後まで読み、少し昼寝をした。高いところから何度も何度も落下する夢だった。『ザ・ウォーク』も混じっていた。どちらも自身の欲望をひたすら真摯に追求する話だったから、混じって差し支えなかった。
外に出た、寒かった、店に行った。今日は信じられないほど暇な日だったらしかった。昨日は信じられないほど忙しい日だったから、バランスが取れたかっこうだった。いやそれは違った。日曜月曜と暇だったから、火曜の猛烈な忙しさでバランスが取れたと昨日思ったのだったから、今日でまたバランスが崩れたというほうが正しいかもしれなかった。
やることもほとんどない。昨日東急ハンズで買ってきた革をカットした。コースターが汚れてきたので新しくしようというところだった。それから武田百合子の『富士日記』をフヅクエブックスで売るべくポップを作った。かつての日記から引用を集め、紹介文を書き、ということをやっていた、引用されているところを読むだけでもいちいちぐっときた。ぐっときた箇所を引用しているのだから自然なことではあった。
それから、Amazonで、もうひとつ山の本を読むべく、今度は『北壁の死闘』をポチった。これはとんでもなくおもしろい山岳冒険小説ということだった。きっとまたグイグイと読ませられるのだろう。
ただ、昨日今日の『垂直の記憶』もそうだけど、今度のそれも、きっとそうなるように、グイグイ、読むのは結構だし読んでいるあいだはひたすら面白いからいいのだけど、それは読書の体験としてどれだけ記憶に残るのだろうか、というのが気にかかるというか、残らないような気がしてさみしかった。いやわからないが、数日とか一週間とか一ヶ月とか、日をまたぎながらおこなわれる読書は、持ち運ばれていろいろな場所で読まれることで、本自体に記憶が付着していって、それが読書の記憶として定着するような気がしていて、最近のところでというか今思い出したのはTOHOシネマズ新宿の待ち合いのベンチというかソファというかで『中動態の世界』を読んでいた場面で、そういう結節点みたいなものが、必要なのではないかというか、あると、より豊かなのではないか、みたいなところで、だからそういう点で、徹夜小説みたいな、そういうものは、分が悪そうな気がしているが、どうか。いやそんなこともないのかもしれない、『垂直の記憶』だったら昼間のカレー屋さんを思い出すかもしれない。どうなのか。
『富士日記』のことを思い出した流れなのか、リュックに入れてきた『マイタの物語』を始めることへの躊躇のあらわれなのか、武田百合子の『あの頃』を久しぶりに開いた。
歌が流れる。歌の題の下の方に日本文字が出る。有名な歌らしい。歌入り映画かもしれない。一組の男女を出迎えた肥った中年女(地元の不動産屋らしい)が、町を案内しながら「ここはロマンスの島よ。芸術家の多い村なのよ」と説明すると「楽しい夏になりそう」と男女が喜ぶ。何だか、つまらない映画なんじゃないかと心配になってくる。
武田百合子『あの頃』(p.458)
たちまち面白い。
ほとんどなにもしないまま営業時間が終わった。達成率でいうと昨日が200%で今日が30%だった。日月火水の4日間で見ると114%ということで、昨日の突き抜けた忙しさはなにもかもを回収してくれるだけのものだったらしかった。
久しぶりに酒を飲まない日にした。その代わりに髪を切った。寝る前、バルガス=ジョサの『マイタの物語』を読み始めた。なんでだか冒頭からいきなり、これはとても今の俺にフィットするのではないか、という気になり、うろたえた。なぜならば。
##3月8日 なぜならば、今日は『北壁の死闘』の予定だったからだ。開店前に届いた。今日は雨だった。完全に暇になるという気分で構えていた。今日はだから、『北壁の死闘』と死闘を繰り広げる、そういう日になりそうな気がしている。
朝、起きた、そのとき、すごい寒い、と思い、それからしばらく「すごい」「すごく」のことを考えていた、僕はずっと、続くのが用言なので連用形で「すごく」にしないといけないところに「すごい」を使っており、使い続けながら生きており、原稿の校正ではすべてに「すごく?」と鉛筆で入れられていて、素直に全部「すごく」に直した、それ以来気をつけるようにしていて、気づく限り「すごく」を使っているのだけれども、やっぱり「すごい」のほうがしっくりくることが多い。口から出るときに引っかかりがなくてスムースというのはまずあるし、それよりも、「すごく寒い」は、言い始める時点で「寒い」まで言いきることを前提とした言葉の選び方だけど、人はそんなに最初から確信を持ってなにかを言い始めるのだろうか、というところだったし、この場合の「すごい」は「寒い」を形容する言葉ではなく、まずなによりも単に「すごい」なのではないか。今朝は、すごい、そして今朝は寒い。まずなにかが過度であることを感知して、それが「すごい」という言葉に置き換わって、そのあとにその過度だったものが寒さだと気づいて、「寒い」と言葉が出てくる、のではないか、と思ってみたが、さすがに言いすぎか。
けれど、「今朝はすごい&寒い」みたいな並列的な体感というのか認知みたいなものはあるんじゃないか。
いや、まあ、そんな気もするのだけど、それよりなにより「すごく」とか疲れる、というのが一番大きいかもしれない。なんでそんなところでエネルギー使わないといけないの、という。それと音の響きとしても「すごい寒い」のほうがやさしいし気持ちいい、と僕は感じるのだろう。すごく・寒い。スタッ・カート。
眠い。『北壁の死闘』を読み始める。創元推理文庫はとても久しぶりの気がするのだけど、カバーそでと2ページめに登場人物紹介があって、閉じてまた開くたびに、目がそこを捉えないようにしないといけないというのがいくらか疲れる。
特に最初のうちは、誰が主要な、語られようとしている、大事な人物なのか、なんていうことは知らないで読んでいたほうがずっといい。この人の話なのかな。あれ、違った。と、誤読をしながら進んでいくことが気持ちがきっといい、だから見たくない。
そして、さっそく面白い。眠い。
雨がまだやまない、と思うたびに、OMSBの「Storm」が流れてくる。
##3月9日 『北壁の死闘』は雑なロマンスと雑なキャラチェンジと総じて雑な展開はあるが、面白く、なぜか『北斗の拳』的な絵柄で想像しながら読んでいる感がある。と打ちながら気づいたが字面の問題だった。
字面の問題だったが、それに引っ張られてたしかに僕はなにかこの小説を漫画の絵で考えているらしく、リヒナーはなぜか『ドカベン』の犬神で、ヘレーネ・レスナーは『キャッツアイ』的な絵柄で、ヘンケは『北斗の拳』のなんかいかついなにかだった。『キャッツアイ』も『北斗の拳』も作品に触れたことはなかったからいい加減だった。犬神だけが、たしかにいた。
朝、起きる。店、行く。母と姉と姪っ子が来る。コーヒー、淹れる。トマト、焼く。店、出る。3人と隣の中華料理屋さんで昼飯を食う。五目あんかけご飯みたいみたいなものを食う。先に出る。雨がまだ降っている。電車に乗る。『北壁の死闘』読む。九段下で乗り換え、東西線に乗る。早稲田に着く。まだ降っている。傘は持っていない。フードをかぶる。早稲田小劇場どらま館に行く。
トイレに行きたかった。どうだろう、と思っていたら、劇場のトイレはすごくきれいで、ラッキー、と思った。それで範宙遊泳の『もうはなしたくない』を見た。その前に、席を取り、まだ時間があり、煙草を吸いたいなと思った。最寄りの喫煙所が地図で示されていてそこに従って歩いていくと早稲田大学のキャンパス内で、ものすごくひさしぶりに早稲田大学という場所に行った気がした。いつ以来だろうか、学祭を見に行ったときだろうか、10年前とかに。大学が近づいてくるにつれて、大学だ、来るぞ、来る来る、という感じが起きて、なんというか大学の町というのはいいなあ、と思った、僕は考えてみたらこういう大学の町というのは知らないというか、僕が通っていたキャンパスは駅からバスで行くような、キャンパスだけが孤立してあるようなところだったから、駅から歩いていけて、古くからやっていそうな喫茶店や定食屋みたいなものが通りにチラチラとある、大学のある町、みたいな町をそういえば知らなかった、キャンパスライフ。それだけで胸がキュンとするようなところがあった。一瞬なにか、またそういう時分に戻りたいような、味わってみたいような気になった。大学生なんて、物語しかない。そうだったっけか。
一服し、戻り、開演に先立って『北壁の死闘』を読み、開演したので見た。3人の女の話で、女たちはそれぞれによかった。スリリングだったしよく笑ったし、笑顔は固まった。
音に恋すること。発する音に信頼の根拠を置くこと。それから、わーっとなって、音楽が大きくなって、3人が踊る、その場面で震えたというか、水色の女が椅子に手を掛けながらアンニュイに体をしならせるのを見た瞬間に、ゾクゾクっと体が震えた。それから涙ぐんだ。
外に出ると雨はやんでいた。駅の方に歩きながら、演劇のことを反芻していた。とても面白かった、面白く見ていたはずだったのに、思い出すのはなんでだかジエン社の舞台で、BUoYで、あれ? どうしてだろう、と思った。『物の所有を学ぶ庭』の、そこにいた人々、彼らの表情が思い出されて、いま見た演劇の人たちの顔が一瞬浮かばなくなった。時間的にも物理的にも距離はいま見た演劇のほうが近いはずなのに、顔がはっきりと浮かぶのはジエン社の人たちだった。戸惑いながら電車に乗った。
いったん家に帰ることにして、帰った。それでリュックにある各種フライヤーを取り出してパラパラと見ていると、ジエン社のやつで「次回公演予告」と書かれたものがあって、『ボードゲームと種の起源』というタイトルだった、「いつ、どこで、どのように上演されるかは一切未定です。このあらすじもすべて適当です」と書かれたそこに書かれていたのは「デジタルゲームのプログラミングと異なり、アナログゲームのルールの裁定は人が担う。ゲームのルールは絶対なものに成りえない。ゲームのルールは——法は、人が運用することが前提でないといけない。だから、その法は運用しやすいものでないといけない。しかも、法を犯しても罰を与える力がない以上、法に従う事が魅力的なものとならなければならない。思わず従ってみたくなるような法。自分を縛ってみたくなるような法とは、どういった法なのか。」と書かれていて、フヅクエのことを考えた。
『北壁の死闘』をいくらか読んだ。岩壁でみんなすごいがんばっている。いくらか昼寝した。起きた、店、行った、夜、働いた。座ることなくひたすら働いていた、時間がない、時間がない、と思いながら働いていた、働きながら、『物の所有を学ぶ庭』のクルツさんの言葉を思い出していた。私の庭にいる以上は、私は熱いお茶を飲んでほしいの。これは私の希望。そんなことを言っていた。熱いものを妖精さんは嚥下できない、それを知っている以上は妖精さんに対しても熱いお茶を出すのはどうかと思う。のだけど、その行動が希望という言葉のもとで起こされたとき、人はそれをばっさり否定する根拠を、持ち得るだろうか。これが、私の、希望、というその希望は、従われなければならないことではないが、それを発する自由はいつまでもどこまでも守られなければならないように思う。守られなければならないというか、ここにある切実さを人は笑うことはできない、ということはたしかだと思う。フヅクエのことを考えた。
けっきょく、けっきょくというか、この演劇で扱われているのは「わかりあうこと」なのかなというか、僕にとってはそうで、僕はけっきょく、人とわかりあいたいのだと思った。わかりあうことが僕の人生みたいなものにとってたぶん大きな意味を持っていて、というか快楽の源泉みたいなもので、だから大事で、それがあればあるていど生きていけるようなそんな気もしていて、それで、フヅクエのことを考えた。フヅクエでも、こういう変な店だ、それを、わかるよ、いいよ、いいと思うぜ、そう受容してくれる人があらわれたときに僕は感動するそれは、「わかりあう」のバリエーションのひとつなのかもしれないなと思った。「あ」というふうに、わかりあえたとき、僕はなによりも感動するということなんだろうなと思った。『親密さ』だってそうだし、『10:04』だったそうだし、『三月の5日間』だってそうというか、『三月の5日間』の、わかるよ、という言葉に、どれだけ打たれたのか、ということを思い出せば、そもそもそうだったのだ、ということに思い至った。この、これを、わかりあえたって、わりとスペシャルって言って差し支えない感じでスペシャルじゃない? 誰とでもこうなれるっていうわけじゃない感じじゃない? うれしいことじゃない? そんなにふうに僕は思いたいんだ、ということを思った。
今週は最後までPUNPEEの週だった。頭のなかでずっと鳴っていたし、珍しく移動中にイヤホンをして聞くということすらおこなっていた、雨で歩いて行き来することが多く、うってつけだった。すこやかにありたい。