本の読める店

読書日記(72)

Entry diary72

2月10日

朝、説明書きというかご案内文章を差し替えた。一段といい店になった。強い、明るい、いい店になった。

途中でいくらか混乱しそうになったというか、混乱しそうになりながら働いていた。始まりがゆっくりだったから、そのあとの怒濤はよりいっそう緊密というか、高かった、濃度が、長いあいだ満席の状態が続き、来られる方来られる方に空いたらお伝えしますがといって連絡先をいただき、空いたらiPadを持って外に出て電話し、再び満席は維持され、というふうに続き、8時半くらいまではずっとそんな感じだった、この満席対応は続くとけっこう疲れるぞ、と思った、入り口の前になにかそういうしばしば見かける待ちリストみたいなやつを出したほうがいいのかもしれない、そうすればだいぶ対応のコストは軽減される、でもこの対応 ——空いたらお伝えしますけど。どのくらいで空くかはわからないですよね。もちろんわからないんですけど、意外にね、こういうときって動くんですよね経験則的には—— はなんだか好きというか嫌いじゃない時間だからそれを削るのもどうかという気も少しする、でも必要かもしれない、すぐに必要じゃなくなるかもしれない。それでノンストップな調子でヘトヘトに疲れて、しかし明日もあるから、と思い、下ごしらえをしていた、チーズケーキを焼いた、これで明日の朝がいくらか楽になる、と思ったらうれしかったというか、自分を褒めたかった、最後、ほんのわずかな時間だけ武田百合子を読んでいた、「テレビ日記」が終わり映画の話が続くブロックに入った、『エイリアン』や『マッドマックス』の話が出てきた、武田百合子は画面を見ているなあと思った、閉店してハートランドを飲んだ、酔った

2月11日

忙しい始まりで、ぐいぐいと忙しく、けっこう張り詰めた気持ちでやっていた、それがポキっと折れた音が聞こえた。昨日が一日とてもみなさんゆっくりいい時間を過ごされてな感じで、いい日で、やっぱり新しいご案内文章の力は強いんじゃないか、もうこれで「読んでなかった」みたいなことは起こらないんじゃないか、というふうにたぶん思っていたのだろう、そうしたらまた出た、読まない人間が発生した。ちょっとした諍いになった。サクッとご飯でご滞在30分という方だった。なんで読まれなかったんですか、メニュー読んでご理解いただいたほうがいいと思いますよ、と伝えてメニューを渡して当該のページを見せたが、わからないので説明してください、と言って読もうとせず、いや口で全部伝えるのは難しいし正確な理解をしてもらいたいから文章にしてるんでしょwww、と思ったしそういうことを言ったが、けっきょく読もうとせず、なにも理解しないままなにか不満だけを抱えて帰っていった。猛烈に忙しいときだった、マジか、これでも読まない人は読まないのか、と思い、なんというか、ポキっと折れた音がした。こんなことは今まで思ったことがなかった気がしたが、看板上げて、ご予約の方以外はもう今日は通さない、なぜなら心が折れたからです、という貼り紙でもして半ば閉めるようなふうにしちゃおうか、というような気がもたげた。もちろんしなかったが、なんというか、悔しさみたいなものというか、怒りや憤りもあるが、悔しさみたいなものがすごく強く湧き上がり、本当に涙が出そうになっていた。昨日で安心したのか、あたらしいご案内文章に期待していたからか、その分、すごく強く食らった。

いい日だった。いい日だったいい日だったいい日だった。

なんというか、これでも読まない人間が発生するのか、ということに、途方に暮れながら、悲しかった。でも落ち着いて見ればまったくいい日だった。パーセンテージで考えよう、と思った、昨日今日の2日間で約3%の人がご案内文章を読まないで過ごした(おそろしいことにそのあとにもう一人そういう人が出た)、97%の人は読んでいる、97%の人は読んだうえで、それぞれのいい時間を過ごしてくださっている。
ちょっとデータ取ろう、何%なのかはっきり出そう、と思った。そうしたら読まずに「は?」となる人に対して「いやwww みなさん読まれますからwww 97%の人が読まれますからwww なんで読まなかったんですか?www」と言えるような気がする、というか、読まない人に対して読まなかったあなたの落ち度だとはっきり一瞬でわからせるためにはどんな応答が一番いいのだろうか。なんで読まなかったのかをちゃんと答えるまで繰り返し聞くというのがいいだろうか。答えは興味がなかったからになるはずで、そうしたら詰めていける。いや、それはたぶんいい方法ではないというか、双方の感情はネガティブなものになるばかりだろう、なんせ僕の手はわかりやすく怒りで震えることになる。あまり健康的ではない。
なんていうか僕はただ、いい時間を人々に過ごしてもらいたいだけなのに、と、そんなことを弱った悲しい顔で言うのはナイーブに過ぎるのだけど、いい時間を人々に過ごしてもらいたいだけなのに、みんなに気分よく過ごしてもらいたいだけなのに、というのは本当に思う。そのために全力を傾けているつもりだけど、だけどというかだから、そうじゃない人が現れるのは本当に傷つく。この傷つきは回避したい、しかしいい方法がけっこうなところ全然見つからない。どれだけ目の前にドンと提示されても、わかりいい目次がデカデカとあっても、読まない人はたぶん決して読まない。読ませることはできない。もう災害みたいなものだと割り切るしかないのだろうか。けっこう、苦しい。

疲れた。すごくなんだか悄然とした。終わったらおいしい酒を飲みに行きたい、と思い、フグレン、と思った、しかし日曜は24時閉店のようだった、それで潔く諦めた、25時だったら、と思っていたし、25時だったら、閉めて飯食ってどうだ、間に合うか、みたいなところだったので、24時だったら潔く、気持ちよく諦められた、だから店でビールを飲んだ。こういうとき、僕のファーストチョイスというかあれはフグレンなんだな、と思った、オーセンティックなバーとかに行く気はしなくて、出入りがゆるいような、そういう、気楽で、それでいておいしいお酒を作ってくれる場所を僕はフグレンのほかに今思い出せなかった。どこかないだろうか。いやフグレンがあればそれでいいのだけど。

2月12日

けっこう、苦しい、を解決する手段を昨夜見つけた。読ませることはできない読むことの決してない人に対しては、口頭でやり取りしても怒りの交換みたいなものにしかならない気がするため、だから苦しかったため、文書を交付することにした。あなたは1.3%です、98.7%の人は読んで過ごされています、ねえ1.3%さん、なにか言い分がおありであればお聞きしますが? それを突きつける、そういう文書を交付することにした。最後の手段だが。最後というのは、昨日の「だから読んでください」って言っても「説明してください」とか愚かなことを言う手合いに対してだった。誤解ベースの怒りなんていうろくでもないものを持ち帰られたらこっちが困る。

ところで昨日おとといの二日間で見ると約3%だったが、ここ一週間で考えたら昨日の段階で1.6%だということがわかり、今日はそういう災害がなかったのでまた減り、1.3%になった。これは実際どんな値に収斂するのだろう。ここからデータを取って1ヵ月くらいのところで見てみたい。

今日も忙しい日だった、ありがたい。ここのところ人の怒りみたいな感情に触れるというかぶつけられる機会が妙に多くなっている気がする。ここのところというかここ1,2週間というか。昨日と今日、店の外で怒りを浴びた。どちらもたいがいこちらに非のあることだった。
一つ目は昨日で、外で煙草を吸って上がろうとしたところ、看板を乱暴に動かそうとするおじさんがあって、ちょ、ちょ、と言って抑えたところ、「こんなところに置いちゃいけないだろ!」と強い声で言われた。乱暴に扱われたためおかしな負荷が掛かって看板をつっぱらせる紐というか帯が外れて、僕はそれでけっこう嫌な気持ちになった、夜中、ビスを打ち直すことを考えたら惨めだった、だからってそんな扱いはないじゃないですか、と言って睨みつけた、しばし睨み合った。とはいえ、こちらに非がある。看板を置いている場所が悪かった、消火栓のマンホールの上に置いていた、というかそもそも公道上で、最初から文句を言える筋合いはない。ただ、それでいきなり怒りをぶつけるというのは、そんなに正当なことなのだろうか、というのがわからない。彼が行使した正義みたいなものがなんなのかがわからない。正義みたいなものをまとった、ただの怒りの吐き出しみたいにも思えてしまう。怒らずに、ここはダメですよと言えば、ああすいません、やっぱりダメですかね、移動しますね、という話で、最初の瞬間から怒りを発する必要がそもそもない。そんなエネルギーを使う必要がそもそもないのに、彼は怒った。とか言ったらさらに怒られるのだろう。違う場所に移した。

もう一つは今日で、やはり外で煙草を吸っていたら、「ここで煙草を吸うのはやめてもらえませんか」と強い、怒気に満ちた声が聞こえ、顔を上げると女性が睨んでいた。僕の返答:ええと、ここ路上喫煙は禁止されてないんじゃないかと思うんですよね、歩行喫煙はダメってそこにありますけど。女性:歩くのと立っているのじゃ違うっていうんですか(睨み)。僕:たぶん違うと思うんですよね。女性:区に問い合わせてみましょうか(睨み)。僕:あ、いいですか、お願いできますか。
すると女性は条例での可否は置くことにして、人が迷惑しているって言ってるじゃないですか、と強く言った。本当に怒っていた。僕はこれはまともに対話できる態度じゃないと思い、煙草を消し、すいません、本当にすいません、と何度か言って済ませた。やっぱり、僕が謝るときというのはおおかた噓だなと思う、誠実じゃないときだなと思う。僕はこれはまあ、そうだよな、悪かったな、とは思うけれど、どこまで本当にいけないことなのかがわからない。彼女に迷惑を掛けたこと、それは間違いない。それは絶対だ。でも僕が「彼女に迷惑を掛けること」をやめないといけない理由が完全にあるのかどうかがわからない。仮に、僕がそう思っている通り路上喫煙は禁止されていないとしたら、僕は条例に則ってはいるわけで、条例に則った行為が、どこまで個人の不快によって制限されないといけないのかは、わからない。彼女は完全に怒っていて、完全に僕に怒りをぶつけた。彼女は、路上で喫煙する人間はいくら怒りをぶつけてもかまわない対象と認識しているのだろう。おおかた、まあ、そういう時代だとは思うし、喫煙者なんて病気の人間は糾弾されてしかるべきだろう。ただ、そこで湧いた怒りをぶつけることは、どこまで、どこまで正当性を持つのだろう。という、この問いは、逆なでをするだけだろう。彼女以外の嫌煙家の人に対しても同じだろう。でもやっぱりわからない。条例とか法律で許されていることに対して、個人の嫌悪というのはどこまでぶつけていいものなのだろう、というか、仮に条例等で許されていないことだとしても、どこまでぶつけていいものなのだろう。僕は殺人犯であるとかの犯罪者をやたらめったら糾弾する人間が大嫌いで、それは犯罪者を裁くのは法律であって、法律によって裁かれた犯罪者はそれ以上は誰も裁く権利はないと思っているからで、被害者の家族とかだったら、どれだけ糾弾してもそれはもうなにかしょうがないのかなとは思うのだけど、関係のない外野が裁こうとするのは本当にただの私刑でしかないし、怒りをぶつける都合のいい対象に対して気楽にぶつけているようにしか思えない、醜い光景だと思うから、僕は大嫌いなのだけど、似ていると思うんだが、そんなことはないのだろうか、いやそんなことはないか、現に僕の煙草の煙で嫌な思いをしているのだから外野じゃない、だから正当なのかもしれない、私刑として正当なのかもしれない。いや私刑としてというか、文句としてきっと正当なのだろう。しかし、いきなり怒りをぶつけるというのはどこまで正当なのか、僕にはやっぱりわからない。
「すいません、ここ煙草吸っちゃダメなんじゃないでしょうか?」「いや、僕の認識ではここは歩行喫煙が禁じられているのであり路上喫煙は大丈夫だと思っているんですが」「私はそうは思っていないんですが、そうなんでしょうか。区に問い合わせてみましょうか」「お願いできますか。助かります」「ただ、条例上でどちらであっても、あなたの煙草の煙で嫌な思いをたびたびしているんですね。その私の不快を汲んでいただくことって可能ですか」「ああ、なるほど、それはたしかに、考えないといけない気がしてきました。(黙考)そうですね、僕も誰かに決定的に嫌な思いをさせるのは本意ではないので、ここで吸うのはやめますね」というやり取りをしたかった。
おおよそ、彼らが正しいのだろう。ただその正しさをほとんと無自覚に怒りという暴力として行使できてしまうのは、けっこうなにかと危ういことなのではないか、と思うのだが、どうなのだろう。なんというか、たとえば10年前だったら同じ態度を取れたのだろうか、というのが気になる。10年前は喫煙は、もちろん個々で大嫌いな人はいくらでもいただろうけど、今より糾弾のされ具合は弱かったように記憶しているけれど、そのときでも同じように僕に怒りをぶつけられたか、見知らぬ路上の人である僕にあのような怒りをぶつけられたか、というところを聞いてみたい。もしそうだったら、ぶれないねえ、だし、もしそうじゃなかったら、多勢になった今、それに乗じて怒りをぶつけることができる、というのは、けっこう、あやういんじゃないか、と思う。なんというか、喫煙というろくでもないことだからまだいいけれど、マジョリティがマジョリティの強みに安心してマイノリティを否定・非難・糾弾する、という形なわけだから、それはけっこう、怖いことだとは思う。
そういうわけで人の怒りを見たくもないし迷惑を掛けたいわけでもないので加熱式煙草を併用することに決めた。これなら踊り場で吸えばよい。調べたところプルームテックがいいかなというところで、事前の登録みたいなことをおこなった。

ともあれ、人の怒りに触れると削られる。怒りっぽい人に出くわしたくない。と、自分もいろいろにプンプンしておきながら思った、僕も怒りの出しどころを冷静に判断しないとなというか。しかしなんていうか本当に、まずは怒り、というのは普通に悪手だと思うんだよな。昨日今日の2つのことなんて、そもそもたいがいの非はこちらにあるわけで、怒りを見せずともおおかたそれぞれの希望を叶えるために僕を諭すことができたはずで、よっぽどそちらのほうがこちらも聞く耳を持ちやすいというか、いずれにしても聞くけれど、怒りファーストだといろいろと建設的じゃなくなる。ということについてはどう考えるのだろうか。やっぱりそこは怒ることが必要な手段だったと考えるのだろうか。挑発でもなんでもなく、純粋に聞いてみたい。とか言ったらまた逆撫ですることになるのだろう。怒っている人にどう接したらいいのかわからない。どれも不正解になるような、そういう怒りを発露する人にどう接したらいいのかわからない。

疲れた。

疲れた。いい日だったはずなのに。おかしい。

2月13日

皮膚科に行ったら「阿久津さん」と言われて「はい」と言いながら立ち上がると僕ではなく待合室に唯一いた他の人である母と子が今呼ばれた阿久津さんということで、阿久津という姓の人ともしかしたら初めて出くわしたかもしれなかった、出てきたら話しかけてそれを伝えようかと思ったがしそびれた。
店に行ってひきちゃんと挨拶をした、コーヒーを飲みたかったが営業が始まっている横で悠長にコーヒー淹れるのも違う気がしたのですぐに出て、途中でうつわ屋さんで箸置きを買って、恵比寿に着いた、最初に猿田彦珈琲でコーヒーを買って、やっとコーヒーが飲める、と思いながら飲み飲み歩き、たぶん居酒屋なのであろう店でのランチの定食を食べて、それからとことこと歩いてガーデンプレイスに行った、ガーデンプレイス近くの喫煙所で煙草を吸っていたら向かいの道を4人それぞれ色の違うランドセルを背負った小学生グループが歩いていて、途中で一人の女の子がのろのろと道に倒れ込み、まずうつぶせになって、それから仰向けになった、すぐ横にいた女の子はそれをポケットに手を突っ込んだまま見下ろしていて、他の二人が気づいて戻ってきて、それぞれ手足をつかんで起こそうとしたりした、立ち上がると愉快そうに4人で、歩いていった。
映画館に入るとまたコーヒーが飲みたくなって、コーヒーを買って席についた、それで映画を見た。映画を見る経験とは、このように幸福なものだった、と、思い出した、そういう映画だった。諏訪敦彦の『ライオンは今夜死ぬ』だった、ジャン=ピエール・レオー主演だった。レオーは、僕の、ヒーローだったレオーの老いた、ぶよぶよとした、目を閉じた顔のクローズアップから映画は始まって、目を開いて、言葉を発した。とても太った。
どんどん幸せな心地になっていった。幽界のバカンスのような時間を過ごすレオーの周りで映画を撮る少年たち、彼らの笑顔。最初、八百屋の前でこっそりバレバレに尾行しながらの、マイクを持った少年の笑顔。自由なのびのびとした子どもたちがあった。レオーは変わらずやっぱりレオーだった。肩をすくめる動作、突然の大声、かっと開く目、全部が最高にチャーミングだった。それに加えて子どもたちを見る和らいだやさしい笑顔。なんていいものなんだろうか。
そして子どもたちが撮った映画を屋敷の廊下みたいなところで上映する夜、画面を見つめる子どもたちの笑顔! 『大人は判ってくれない』の小屋で人形劇かなにかを見る子どもたちの場面のようなすばらしいいくつもの顔。単純で素晴らしい、とレオーは映画を評した。しかめ面をして映画をつくっている人たちもいるが、君たちは楽しんでやっている、素晴らしい、と言った。そして静かに歌が始まる。なんて美しい場面なんだろうか。
やさしい顔の少年が母親と会話を交わし、抱きしめるところ、そこからしばらく涙が止まらなくなって、バスでわあわあと過ごすところも、湖での撮影も、ほんとうに美しかった。
見ながら、Netflixにはアントワーヌ・ドワネルものはありそうだけど、『男性・女性』はあるのかな、『ママと娼婦』はあるのかな、Netflixに入らないとな、プロジェクターを家に持って帰らなきゃ、スピーカーを買わなきゃ、そういうことを思っていた。映画を、というか今はレオーを、もっと見ていたい。

映画が終わってしくしく泣きながらガーデンプレイスを離れて、予約をしていたタバコ屋さんに入った、そこでプルームテックという加熱式煙草を買った、渋谷に出て、丸善ジュンク堂に入った、『新潮』を買おうということだけは決めていて、『重力の虹』がある以上は他の小説には手を出したくないよな、いや、読書、読書、読了、どうのような、読書、いや、等々考えて、『スペクテイター』のカレーの特集が目に入って開いてみると虎子食堂のというのかカレー屋まーくんのというのかのインタビュー記事があって、なんとなく読んでいたらとてもよかった、それから横にずれると『IN/SECTS』の「いいお店のつくり方2」が目に入って、それも買うことにした、雑誌3冊、珍しい買い物になった。お店の人の話を聞きたいみたいなところがとてもあるのだろう。
フグレンに行って、なんだか肩が重かった、息苦しくなるかと思ったため緩めたくて酒を呑むことにした、バーボンとレモンソーダのやつで、とてもおいしかった。そこでソファでパソコンを開いて「ひとの読書」の最終推敲とアップをして、日記を書いた。

それにしても諏訪敦彦。これでのぶひろって読むのだなあ。驚くのはもちろん彦だけど、僕はたぶん敦という字をどう読んだらいいのかわからないところがある。柳原孝敦とか、いつまでたっても自信ができない。
ピンチョンをいくらか読み、なんでだか久しぶりにAnderson .Paakを聞きたくなったため聞きながら読んでいた、それから『IN/SECTS』もひとつひとつ読んでいった。閉店時間も近づいてきたため出て、先週行ったアイリッシュパブのタラモアに行ってみることにした、一人でも気軽に入れそうだしいられそうな気が、先週したためそういうことをおこなってみた。お店の人と対面しないほうのカウンターの席に通されて、それでビールとフライドポテトを注文して、煙草を吸い、『IN/SECTS』を読んだ、ビール等がやってきたのでピンチョンに切り替えて、飲み飲み、読み読み、過ごした。これは、とてもいい気がする。たいそういい時間だった。
ビールをもう一杯飲んで、ピンチョンにはなんだか今日は集中できなかったというか、この人だれかわからないんだけどこの期に及んで新キャラ? という人のところで、なんのこっちゃと思いながらの読書になった、帰ることにした、ちょうど、タイミングが悪く、お店の人に気づかれることなく出るというタイミングになった、フグレンでも今日はそうなった、なんとなく、逃げるようにして出たような感じがあるというか、さみしさがあるというか、ごちそうさまでしたとちゃんと伝えて出たほうが、どうもどうもと言われて出たほうが、時間の締め括りとしてはよいよなあ、と思った。キャッシュオンの店ゆえに起きることだった。
今日はもうジャガイモだと思って、コンビニでビールとポテチを買って帰宅した。風呂にゆっくり浸かった。ポテチを食べる気が見当たらなくなった。ビールを飲んだ。飲みながら『新潮』を読んでいた。日記。岡田利規とか。岡田利規が古川日出男の本を読んでいて、ということが触れられていて、その数人あとの古川日出男のところで、岡田利規から「読み終わりました」のメールが届く、という記述があり、「わ!」となった、なにかアクロバティックな運動という感じがあった。総じて面白い。去年のその日、僕は、と思ったりしながら読んでいた。
歯を磨いた直後、飲もうと思ってウイスキーを置いてあるところを見たらポテチの袋とミックスナッツの入った瓶が目に入って、食べたくなった。

寝る前はピンチョン。

2月14日

休みの翌日はエンジンが掛からない感じがあってポヤポヤとしていたら開店時間を迎えて、そうしたら忙しい日になった。昨日も忙しい日だったようで、昨日は谷川俊太郎展は休みの日だったから、フヅクエの調子がいいということでいいのかもしれない。

プルームテック。それを階段に腰掛けて吸った。昨日充電していたそれにカートリッジとカプセルのやつを装着して、吸い込む。そうすると先端が青く光り、今加熱してますよ〜吸えてますよ〜、となる、ということのようだ。
これは、すごい。なんというか、箱から煙草を一本抜いて、ライターの火をつけて、吸いながら燃やし、それで煙を吸って吐いて、ということがこれまでの喫煙だったわけだが、加熱式煙草、これはすごい。煙草を吸うという一連の動きからすべての余計なものを削ぎ落として、純粋なニコチンの摂取、というものになる。いやそれは言い過ぎだけど、かなり純粋なところに近づく感じはある。これを吸っていると自分の病人っぷりのようなものがすごく自覚させられる。

仕事をしていたら一日が暮れていった。それはよかったのだが、終わって、なにか、さみしいようなこころもとないような気持ちになった。『IN/SECTS』をいくらか読んでいた。お店の人の話はいい。がんばりたい。

寝る前、ウイスキー飲んでミックスナッツ貪りながらピンチョン。

2月15日

コーヒーを飲みたかった、飲みそびれたまま店を出て、西早稲田のほうに向かった、少し時間があったのでマクドナルドに入って武田百合子をひとつ読みながらコーヒーを飲んだ。ほとんど飲まなかった。それから、ぽかぽかとあたたかい日でうららかで、戸山公園を眺めた、装丁の緒方修一さんとNUMABOOKSの内沼晋太郎さんと打ち合わせだった。今日は装丁案を見る日だった。それはとても、とてもいい時間だった。8案、まったく違うデザインのものを出してくださった。ご自身で一つに絞って出すことが多く、全部見せるということはめったにやらないこととのことだった。うれしありがたかった。ああだ、こうだ言って、一つに決まった。ああなるほど、この本がまとうべき装丁はこれなんだ、ということがとてもしっくりきた。
打ち合わせの場を後にし、静かにじわじわと感動しながらふわふわと自転車で移動した。
カウンターパートコーヒーギャラリーに入って、ケニアのコーヒーを淹れていただき、2階に上がって本を読んだ、ピンチョンを読んだ、冒頭で登場してこの人が主人公なのかなと思ったらだいぶ脇役だったプレンティスが登場して、飛行機に乗っていた、1時間くらい読んでいた、清水橋の交差点が見下ろせた、橋はどこからどう渡っていたのだろうか、ここは水だったのだろうか、『アースダイバー』の地図をあとで開いてみようと思った。じりじりとあたたかい日だった、窓際にいると熱に当てられるようだった。交差点で半袖の男性二人が出会うと握手をして、両手を大きく広げて、ハグをするのかと思ったらハグはしなかった。この店に入ったらしく、しばらくするとまた出てきてどこかに歩いていった。「まずは一杯コーヒーでも飲もうか」という待ち合わせはいいものだと思った。
眠りたい気になったので家に戻ることにした、家に戻って、いただいてきた装丁案をまた並べて見て、いい気持ちになって、それからいくらか昼寝をして起きたら店に行った。前半はゆっくりだったようだった、最初はエンジンが掛からないというかやる気がおきないというかのんびり過ごそうというモードだったが、とんとことお客さんが来られ、忙しいというかずっとパタパタと働いていた、気づいたら仕事モードにちゃんとなったのでよかった、いくつか仕込みもしながらだったのでノンストップという感覚だった、時間が、閉店時間がどんどん迫ってくる、そんな感覚だった。半分だと本当に短いなと思った。

帰り、ビールビールウイスキーウイスキー。ピンチョン。

2月16日

遅くまで寝ていたがそれでも全然寝足りなかった、どうかしている。昼、幡ヶ谷までトコトコと歩いてうみねこカレーでお昼ご飯。行ってみたかったので行った。そうしたらとてもおいしかった。また行きたい。
カレーを食べたらコーヒーを飲みたくなるのでこの順序だったがそれでカレー後パドラーズコーヒー。外の席で梅の花や植わったあれこれを眺めながらコーヒーを飲んだ。これまでずっとカフェラテだったが、前回と今回はコーヒーを飲んでいる。いい午後だった。トコトコと歩いて帰った、いい散歩だった。
カレーを食べたため『スペクテイター』をいくらか読んだ。ダバクニタチ。ネグラ。店の人の言葉を聞くのはやっぱりいいというか元気というか聞きたい。店をやっているという知り合いがほとんどいないからというのもあるかもしれない。そういう友人がほしいかというとわからない。いややっぱりうれしいだろう。それなりに、孤独だ。
それにしても「ねぐら」、「塒」。ねぐら! すごい漢字だ。土の時間。感動した。

そのあと『新潮』で角田光代、奈良美智、岸政彦の日記を読んで、コーヒーを淹れてピンチョンを読んだ。残りも300ページほどになり、なんだかクライマックスかなにかにいくらか向かっていっているような雰囲気がある。なんでそうなのかはわかっていないが。なにがどうなっているのか、まるでわからないままここまでずっと読んできた。
案の定で眠くなり、昼寝。起きて店。向かう途中、ヘルメットをした自転車の男の子が横断歩道の真ん中に荷物をいくつか落とした、彼は渡りきった、そこから戻ろうとした、車が曲がってこようとしていた、というタイミングで僕が、渡らずに左折する予定だったが渡る動きを取って、拾って戻って渡した、なんだかヒーロー感があって気持ちよかった。ぽかんとして一言も口をきかなかった男の子の頭には、僕が拾っている最中、「あのひと持っていく気かな」という考えがかすめたりしていただろうか。ひとつの場面には常に様々な可能性があった。

今日は終日暇だった。金曜。
とは言え半分だけだとやはりあっという間で、あれこれやっていたら12時が近づいていた、11時を過ぎて初めて座って、いくらか『IN/SECTS』を読んだ。一週間経った。ここ1ヵ月くらいで見ると0.6%まで減った。

楽しいことばかりではない。ライフをうまく積み上げられない。

終わりの時間にお客さんと外でぺちゃくちゃしゃべって、それはなんというか救われる時間だった。いい終わりだった。よかった。
閉店後、Fla$hBackSを大きな音で聞きながらショートブレッドを焼き、氷を砕いたりメニューを印刷したりしていた。
俺は俺なりにそれなりに孤独に、俺なりのやり方でそれなりに闘っている。

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