本の読める店

読書日記(35)

Entry blog fuzkue469

5月27日

8時に起きる。2時間仕事をする。10時から動き出す。12時に店を開ける。24時に店を閉める。2時までに寝る。8時に起きる。
そんなペースにどうやらしたいらしいのだけど「その生活って?」という疑問が湧かないでもなかった。そのため、ではなかった。昨日寝るのが3時くらいになってしまったためせめて6時間は眠らないといけない身なので8時に起きることはやめて10時に起きた。それにしてもそんなペースにしたとき、いつ本を読んだらいいのだろう。「2時まで」の後ろ30分くらいだろうか。そんな暮らしでいいのか。昨日お客さんから読書日記で「メイビーノットトランスレイティド」な「KAZUSHI HOSAKA」とあったのを見て気になって調べてみたところどうもなんと『プレーンソング』は英訳されている、そのレビュー等を見てみると「日本のジョン・マグレガー」と評されている、ジョン・マグレガーはクレスト・ブックスで『奇跡も語る者がいなければ』という小説が出ている、今ぼくはそれを読んでいる、ということを教わり、今ぼくはそれを俄然読みたい気になっている。

土曜日、晴れ。午後一時からほんの一瞬だけの大嵐が吹き荒れ、「これは!これは!」となったが本当に一瞬で止んで、午後三時の今は座っている。びっくりした。木村俊介の『インタビュー』を読んでいるとその声のかすかさというか、暴力にならないように、搾取にならないようにする真摯な姿勢というのかが濱口竜介と酒井耕の東北三部作をたびたび思い出させる。たぶん全然違う話だとは思うのだけど、柔らかさみたいなものが通じるような気がする。証言を回収しようとするのではなく、そこに流れる時間を記録するような、そういう柔らかさみたいなものが通じるような気がする。わからないが。

結局は十分に忙しい日になったためにしっかりと、というかへとへとに疲れた。九時くらいからは頭がまったく回らなくなって、少し隙間の時間ができたら読書日記全文の半角数字を漢字等に置換する作業をずっとしていて頭がおかしいのかと思った。
日中、それを「またやろw」と思って開いてみたところUlyssesのなかでテキストがなんでだか、すべての改行が消された全部が詰まった状態というのになっていて愕然として、なんというか「これはきっとそんな不毛な作業はもうしなくていいというお告げということで」と思って少しさっぱりしていたのだった。なのにそれをまた、今度はワードファイル上でやり始めた。圧倒的にワードでやった方がやりやすかった。半角数字を探すだけだときりがないのでまずは多くありそうなもの「〜時」とか「〜年」とか「〜つ」とかそういう条件で、だから具体的には「24時」「23時」「22時」〜「0時」という順番で検索して「二四時」「二三時」〜と置換してくことをしていた。この順番が正しいというのは最初に「1時」とかでやろうとしたときに、これだと「2一時」みたいなことになるのを見て気がついたことだった。そういう「ありそうな数字」をまず潰して、それからは高度な検索で「0-9」のワイルドカードがどうこうという条件で検索を掛けて、変えていく、そういうことを気が狂ったみたいにやっていた。回らない頭は「それをやめる」ということすら発想できなくなっていた。

5月28日

あまり早起きはできなかった。それでもショートブレッドを焼いたり掃除をしたりの今日の開店までにやっておくべきことを片付けてから50分ほど時間を作れたのでそこで仕事をしていた。すると捗ったしなんだか気分がよかった。なんでだかScreamin' Jay Hawkinsを聞いていた。Screamin' Jay Hawkinsというと、というと、というので名前をど忘れする。浮かぶのは『パーマネント・バケーション』だがそれじゃない、次のやつだし、思い出したいのは監督の名前だ、ジム、ジャームッシュ。ジム・ジャームッシュが出れば『ストレンジャー・ザン・パラダイス』もスムースに出てくるのが面白い。でScreamin' Jay Hawkinsを聞いて作業をしていたら捗った気がした。どうだったか。
それにともなって村上春樹の『風の歌を聴け』をペラペラしていたところ、この小説では数字の多くは全角で「3年」とかこういうふうになっている。二桁も起こしてというのか「12キロ」とかになっている。三桁もたしか「100円」とかになっていた。でも煙草は「一本」だし年齢で「八つのとき」というのもあった。なんとなくわかる気がする。そう思っていたら「四度」という表記が出てきて、意外に規則性というかきっちりとしたルールはないのかもしれないなと思った。でも四回目の四度は4度でなくて四度が妥当か。どうなんだろうか。講談社からずいぶん以前に出ている小説とか、校正だか校閲だか僕はどっちがなんだかわかっていないままだが、そういうの厳しそうだから、実は数字については意外にそのつどのなんとなくでいいよ、みたいなものだったりするのだろうか。

そういうわけで朝からなんとなくいいように動けて気分がよく店を始められたのだが機嫌のよさというのは自分が後悔しないためにも持ち続ける努力というか意識をしておくべきだ、と痛感するというか苦感した。それはとても後味が悪く、要は僕が機嫌よくしていれば味わわないで済んだ味だった。ただそんな機嫌のよさはなんだか不当な気もしてしまって、バカらしくもあった。でもこういう味わいを繰り返すのも同様にバカらしいので、機嫌がいい方がいいのかもしれなかった。よくわからない。よくわからないので今日も不毛な置換作業でもしようかという気が起きてきた。午後二時。

そこから忙しくなり、夜はいつもどおりに暇になり、不毛な置換作業を鋭意おこなったところ漏れがなければおそらくすべての項目を置換ないし残すという判断のもと残すということができた。残すという判断のもとwww いったい何をやっているのだろうか。

「【中日】2回KOのバルデス2軍落ち…暴れん坊のスピード狂、ロンドンが昇格へ」
暴れん坊のスピード狂、ロンドン……

11時前にまさかのトントントンと3人の方が入ってこられるという、めったにないというか、まずないというか、初めてくらいのそういうことが起きてびっくりした。何があったのだろうと思ったがなんだったのか。ともあれ数字としてはこの予期せぬ上乗せは大きかった。残り3営業日、バジェットの数字とにらめっこをしている。売上はおそらく未達で粗利益はどうにか達しそうなところで、ほしいのは売上ではなく利益なのでそれでいいのだけど、ただ平日は本当に暇な日が多いのでどうなるかの予断は許さない。予断が許されようと許されまいと、僕がやることは変わりなく、ただ待つということだった。数字を見ていて思うのは「競馬かなにかみたいだな」ということだった。馬券を握りしめ、走る馬を祈りとともに見つめることしかできない、結果に自分は与することはできない、そんな感覚だった。

5月29日

早起きをするために1時半くらいには寝たのだが3時くらいに目が覚め妙に冴えてしまって眠れなくなった、途中で外が明るくなり始め時間を見たら4時半とあり、そんな時間から外は明るくなるのかと知らなかったことを知った。しょうがないので少しのあいだ『インタビュー』を読んでいたら第一章が終わって第二章が始まった。なんだか本当に不思議な本で、とらえどころがないというか、変な感覚で読んでいる。インタビュアーを志している人に向けた本なのか、自身の仕事の振り返りを綴った本なのか、それはもちろん両立するとは思うのだけど、声の向く方向がわからないような感覚で読んでいる。第一章では「後述するが」が頻発し、第二章では「第一章でも述べたように」が多く出てくる印象がある。さらに第二章では「この章では」というこの章で何が語られていくのかが、わりと何度も書かれている。本編のなかでずっと予告編をやっているような変な感覚がある。それらは「ゆえに面白く読めない」ということではまるでなく、ただ純然と「なんか変だ」という感覚が続いているという話で、話されているインタビューの本質みたいなものは面白い。RAWな、生な、ものへの興味が強くなっている僕にとっては多分ここで言われているようなインタビューはきっと面白く読めるだろうなという感じがある。もちろん声そのままではなく構成され加工されているからRAWというのは違うだろうが。それにしても話されている、言われている、というのがなんというか象徴的で、この本の変な感じは書き言葉ではもちろんあるのだけど何か話されているRAWな声のように感じられるところにも起因しているような気がする。
そうやっていたら眠くはならなかったが眠れるような気もしたため眠ってみたら眠れたので朝まで寝た。早起きはできなかった。バナナは食べた。

コーヒー豆の種類が変わったので印刷し直そうとイラレをいじっていたところ、その前に現在のコーヒーの銘柄を確認するのでコーヒー屋さんから送られてくるPDFファイルを見たところ、ニカラグアの豆の農園名が変わっていることに気がついた。これまで「リモンシリョ農園」だったのが「リモンシージョ農園」になっている。
これは先日も細野豊のあとがきで見た、lloの読み方の問題で、アルゼンチン以外では今のところ「ジョ」は大勢を占めていない、ということがあとがきに書かれたのは、あれは何年の刊行だったか。それから数年が経ってどんどん状況も変わっているのかもしれなかった。

夜に疲れたので『インタビュー』を読んでいた。読みながら著者のなんというか凄みみたいなものを感じたり、眠くなったり、そういうことをしながら読み進めていたらふいに昨日の夜に見た夢の感触が立ち上ってきて空中回廊的な、2階の場所で、すぐ横に簡単な作りの飲食店があった、テイクアウトだけをやっているようだった、ワッフルだったかジュースだったか、がイケイケというか若い見目のうるわしいいタイプの男性だか女性だかによって売られているか売られていないかしていた。そのイメージと、どこかの家。水浸しだったような、そうでもなかったような、死体があったような、なかったような。その夢の、言葉で記述できる前のぼんやりとした感触を今こうやって打っているあいだもそれは立ち上り、でも捕まえられはせず、こうやって言葉が続いているなかでなにかが現れないかと期待するが、感触だけがきれぎれに。

胸がザワザワとしている時間の長いそういう一日だった。いいことではない。

5月30日

休日だったのでできるだけ早起きをして仕事をして、ちゃんと休日にするようにした。そうしたところアホほどいい休日を過ごすことができた。日暮里に行って中華料理屋さんで大根と春雨と豚肉の食べれば食べるほどたいへんに好みな炒め物の定食を食べてビールを飲んで、それから繊維街に行ってメニュー表の革のやつをどうにかしないとと思っていたので革屋さんにあれこれ教わった、その結果として裏地として使える薄い革(豚)と強化剤とボンドを購入した。
うろうろと歩いて谷中霊園のほうに行ったので中を通ることにすると桜の木が並んでいる大通りみたいなところがまっすぐにまっすぐに明るい緑をたたえて伸びていて、それは『牯嶺街少年殺人事件』の冒頭のシーンみたいだった、というかロケ地と言われても驚かなかった。墓に囲まれた場所でこんなに晴れやかになれるというのはすごく心地がよかった。むしろ墓場こそ晴れやかであるべきなのかもしれなかった。墓参りをすることが気持ちのいい行事になるような場所にこそ墓はあるべきなのかもしれない。ということを初めて考えた。
そのあとにビールを飲みに寄ったビアホールに革等々を置き忘れ、そのまま夜は下北沢に移動してB&BにRethink Booksの『今日の宿題』、分厚い文庫本のやつが欲しくて行った。他になにか買おうとあれこれを見ていたところ、作品社から先月くらいに出ていた『ほどける』という、「Untwine」というのが原題の小説とエクス・リブリスで出たばかりらしい『ピンポン』という韓国の小説が気になったのだが、なんでだかそれらは選ばなかった。なんで選ばなかったのだろうか。けっきょく『今日の宿題』と川崎昌平の『重版未定2』と木村俊介の『善き書店員』を買った。なんというか、けっこう恥ずかしい買い物だった。本屋さんの本と出版業界の漫画と書店員へのインタビュー、を本屋さんで買う…… こんな恥ずかしい買い物をするくらいなら後ろの二つはAmazonで買おうかとも思ったが、いやいやいやと思ったためちゃんとその場で買った。エロ本を買う方がまだ恥ずかしくないだろう、という程度に恥ずかしかった。
という、ほんと休日だなという休日になってなんというか非常に晴れやかだった。最近は休みの日もあまり休みという感覚が持てず、なんで自分に課しているだけの「秋までに小説を完成させる」というタスクがこんなに重くのしかかっているのか、なんでそんなに「ちゃんと取り組まないと」と自発的に思えてしまっているのか自分でも不思議なほどに「やるべきこと」になっていてそれをやるためにカフェにこもるみたいなことになっていて、気分としてはまるで休んだふうにならない感じが強かったので、午前中に日々コツコツとやっつけるというこの流れは本当に正しいような気がしてきている。どれだけ続けられるのか、というところが不安だが。
十時くらいには帰宅して寝支度をして『インタビュー』の最後をやっつけた。小島信夫へのインタビューからの引用があったりして、あったりしてというのも変だが、読んでいた限り随所の言葉になんというか多分この著者の仕事に対する態度みたいなものはきっととても面白くて真摯なものがある、すごい取り憑かれている、というのはわかったのだけど、それでもこの本は総じて最後まで結局ものすごい変な本だったと思う。奇書と言いたいくらいの。毎日半ページくらいずつノートに手書きで書いた原稿ということだけれども、ある意味でとてもRAWな言葉がずらーっと並んでいるという、そういうことでもあるのだろう。息遣いのようなものがあまりに殺されないまま印刷されている、そういう印象で、それはすんなりとわかりいいものではまったくなかったし、すんなりとわかりいいものが書かれようとしたわけではないとも思うのだけど、それにしても最後まで戸惑っていた。そういうわけで「では、そのインタビューはどんなものなのか」というところに興味が湧いたので『善き書店員』を買ったわけだったし楽しみなわけだった。

5月31日

夕方まで書き書きをしてひと段落というかもう疲れたというところで、暇なので昨日買ってきた『重版未定2』を読むことにした。ひとつ読んでそれから『善き書店員』を読んだ。本というものはいい。

本というもの自体が好きなんです。装丁も好きだし、開いて読んでめくっていくという動作も好きで、見るのも触れるのも好き。めくるといろんなことがわかる。紙の束の中に、物語が、世界が入っている。本の中にはいろんなものが入っている。一方的ですが、何百年も前の人に本を開いたら会えてしまうし、読むことそのものはいつも個人的なことなんだけど、感想を誰かと話すとか、本を使っていろんなことができるし、ひとりの読書がひとりだけのものではなくなっていくのも好きですね。
読んだ時のことを思い出せる、というのも本のよさですよね。今日、ラジオで好きな本について話そうと思って持ってきた、文庫で四年前に出たリチャード・ブローディガンの『芝生の復讐』、これは読み直していたら本のページとページのあいだから桜の花びらが出てきたんですよね。あ、これは春に読んだんだよな、公園の角で、とか、あちこち折ってあったり線が引いてあったり、四年前の自分に再会できた気になったんです。普段はそんなに本に痕跡を残さないけど、当時の自分はそうしたかったんだな、と思ったりしました。ブローティガンに再会できるだけでなく、四年前の私が読んだ『芝生の復讐』というのはどういう体験だったのかも再認識できる。いまの自分が線を引くならここじゃなくてこっちだなとか思うわけですから。四年前の自分とのコミュニケーションも生まれる。 木村俊介『善き書店員』(p.28)

5月が終わる。今月もよく働いたなと、それだけ思う。それだけというのは嘘だった。でもよく働いた。疲れた。
自転車で走っていたら前を走るバスのナンバーが「2666」で、前に同じナンバーのバスを中野通りの笹塚と南台のあいだのあたりで見かけたことがあったのを思い出したため追いつくと自転車を持って乗り込んだ。
車内はがら空きで、適当な席に座って外を眺めていた。バス停で止まっているあいだに黄色いレインコートをまとった三人が自転車でバスの横をゆっくりゆっくり走りすぎていった。急ぎ足で乗ってきた若者たちがあり、彼らはバイオリン等の弦楽器をケースから出すと演奏をし始めた。
あとで中野通りを検索すると、中野五差路、新井五叉路という二つの五叉路が中野駅の手前と向こうのわりと近いところにあった。中野五差路のほうは一度通ったことがあって、迷ったことがあった。その中野五差路をまっすぐに通り、それから駅を過ぎて今度は新井五叉路をまっすぐではない方向に進んだ。次第に外の景色は変わっていき、サンタテレサに着いたことがわかった。砂漠のなかのだだっ広い街だった。チーチョ・フローレスが前言っていたことを思い出した。「ここにはなんでもある。工場、マキラドーラ、低い失業率——メキシコでもっとも低い——、コカイン・カルテル、絶えずよその町や村からやってくる労働者、中米からの移民、都市計画が支えきれないほどの人口増加、金もある、貧困もたっぷりある、想像力に官僚主義、暴力もあれば落ち着いて仕事をしたいという欲求もある」
刑務所が見えた。それはグアダルーペ・ロンカルが言ったようにたしかに生き物に見えた。グアダルーペ・ロンカルが言ったようにたしかに切り刻まれた女のように見えた。グアダルーペ・ロンカルが言ったようにたしかに切り刻まれながらまだ生きている女に見えた。敷地の周りを自転車で一周してみようとしたところとても気持ちがいいサイクリングロードになっていて、フェンスになっていて敷地内を覗けるところで中にいる囚人と目が合った。ずいぶん離れた場所だったが目が合ったことがたしかにわかった。大きな男だった。なんともいえない強い恐怖に襲われ、僕はわきみちにそれて自転車をとめると嘔吐した。サークルKがあったので寄ってテカテを買って口をゆすいだ。コンビニの横には三人の男と一人の女という四人組がいて愉快そうに英語で話していた。どうやら学者のようだった。聞き覚えのある作家の名前が彼らの口から発せられたような気がしたが定かではなかった。

6月1日

寝る前に『善き書店員』を読んでいたら、『善き書店員』も『重版未定』も面白いのだけど本の本ばかり読んでいたらなんだか間違った人間になるような気がして気が塞ぎそうな気がしたため急いでAmazonで『奇跡も語る者がいなければ』をポチったところ夕方に届いた。まだ開いてはいないが気分が少し落ち着いた感があった。小説を摂取しなければならない。
と言いながら夕方、仕込みも特になくなってからぼんやりと『善き書店員』を読んでいた。広島の廣文館金座街本店の方のインタビューがとてもよかった。品揃えもまあ大事だけど接客が大事という話が話されていた。大事というか、大事にしていきたい、という話だった。なんだかとてもふしぶしにぐっときて、最後ではっとした。

いや、ちょっと油断するともう、なにか、かすかすになってしまいそうな中で働いているからか、ひとりではそういうことを考えるのですが。気をひきしめて働いていきます。 木村俊介『善き書店員』(p.170)

今書き写すまで僕は「いや、ちょっと油断するともう、なにか、かすかになってしまいそうな」と読み違えていたみたいで、そのここで「かすか」と言うか、というところにけっこうよくなっていたので、引いてみたら「かすかす」だった。でもどちらもよかった。
朝はそうすべきように早く起きて昨日まで書いていた章の推敲をいくらかしていた。明日から次の章になるのだがどんなふうに展開されるのか皆目見当がつかなくて、書けるのだろうか、という妙な、バカみたいな、うっすらとした緊張みたいなものを午後から覚えていて、僕はいったい何になりたいのだろう、と思った、というか、どうしてそんなに真剣になっているのだろう、と思った、ということだった。
「明日は取り掛かりだから、一文字も進まなくたっていい、ちゃんと朝に起きて、パソコンの前に座ってそのことをじっくり考える、その時間を設ければいい。ぐねぐねと、進まないように思える考え事に時間を費やせばいい。一見進んでいないように思えるが、そこで粘って考えた時間の集まりが岩に一点の穴みたいなものを穿っていって、あるときふいに向こうに光が見えたと思う間もなく水が流れ込んでくるから、それでいい、考えろ」など考えていて笑った。

トイレでブルータスを開いていたら羽田圭介が「はねだ」ではなく「はだ」であることを知って驚いて、それから生まれ年が同じであることを知ってまた驚いた。驚いてばかりだった。その左のページが植本一子で、読んでいたら『働けECD わたしの育児混沌記』を読みたくなった。

夜。
四球、右2、左安、四球
三併打、左本、左安、二併打
今日の近藤くんと中田くんで、なんというか味わい深い。嘘をつき続けながら生きている。

6月2日

昨晩未明、東京都渋谷区笹塚の銭湯にいって湯船につかっていたところ天井まで届いていない壁の向こうからいつになく華やいだ話し声が聞こえ続け、向こうには今、裸の女たちがいるのだな、と思った。なんというかそれは、凄いことなんじゃないか、と思った。

それよりは前のことだった。まだ暮れきっていない夜も早い時間に予約をしたうどん屋さんに入って真っ先にタコの粕漬けとさつま揚げを頼んだ。土蔵かなにかを改修かなにかした建物で、小上がりというのか、小上がりといってみたいだけだが、座敷席に通されてそこで「ジューシーな」と書かれた日本酒を飲み、肴をつまみ、最後に釜揚げうどんを食べた。
見上げると蔵らしく天井まではとても距離があり、それは先週であるとかに見た、墜落して体がバラバラになったか潰れたかした遺体の確認をしたあとに通りかかったうどん屋か居酒屋か、それと同じような作りだった。近くに材木屋があってそこで私は長い一枚板を購入して曲芸士のようにそれで器用に遊んだ。そのことを今朝見た夢でまた思い出した。うどん屋さんに最近行ったのはたしかなことで、その記憶がiPodを持った少年たちによって再生されて全曲リピートのつもりが1曲リピートになって延々と繰り返された、そういうことだった。「やっぱり君たちはiPodの使い方をわかっていないんですね」と僕は、言わんこっちゃない、という態度はできるだけ見せないように気をつけた口調で言った。僕たちには、こいつがあるんですよ、彼らのうちの一人が片手に持っているスケートボードを少し掲げて僕たち全員に見せてくれた、その板の上には見覚えのある英単語が書かれていてそれを見た瞬間は気の利いたそのフレーズに笑って今はもう忘れた。品のいい女性が季節の天ぷらを持ってきてくれて塩をつけて食べた、みょうがとなすとごぼうと海老と、そんなものがあったように思われて、少年の一人が地震で陥没したり隆起したりしている道をものともしないでスケボーで滑りおりていったし途中で仲間たちも加わって、白いシャツをきた大人の男は道端の灌木のなかに倒れ込んだのを僕は見かけた、そのためその場ですべてを口から吹き出しながら大笑いしてしまった。それを人に注意された。

川崎昌平の『重版未定2』を昨日の夜の営業の終わりごろに読んでいたらこの漫画はほんと面白いなーと思った。1が面白かったから2を買ったわけだけど輪をかけて面白い。
『善き書店員』も引き続き面白い。熊本の長崎書店の方のやつを読んだ。そうとう逼迫した経営状態で後を継いでそこからどう立て直したか、みたいなことが語られていてとても面白かった。輪をかけて面白い。
今日も朝はちゃんとといってもいくらか早起きできなくなってきたがそれでも1時間くらいは取り組んだ。少し書けた。輪をかけて面白い。
昼は溜まっていた経理の仕事というかレシートの入力作業をしていてこれまでは月末月初は好き好んでやっていた作業だったが昨今のなんとなくいろいろに追われている感覚からすると面倒な作業になってしまい、今月からは日々の、集中力がもうなくなったようなそういう時間にやっていこうと決めた。ダラダラした仕事はダラダラした気持ちのときに片付けることにしよう、ということだった。なんて真面目なことになっているんだろう、と我ながら思う。なんというメリハリをつけようとしているのだろう、と思う。輪をかけて面白い。
レシートその他を入力し終えて月別の一覧表みたいなものにパシンと反映させるとここまでの数字がわっと見える。そうすると今年は本当に去年までよりもよくなっていることがわかる。わかったところで、ではそれはなんなのかというのはわからない。明確に年収1000万を目指したい、貯金1000万を目指したい、なぜならば、1000万を稼ぐと/があるとこういうことができる、こういう状態にいられるから、だ、というのが、あれ、ば、きっとなんというか目指すぞと思えるのだろうが、それがない以上「増えた」とか「減った」とか、プロ野球の試合結果を見るぐらいの感覚で見るしかできない。つまり結果だけがあって、その結果に自分がコミットするすべを持たない、みたいなところで競馬、みたいな、と書いたのは今週だっけか、先週だっけか、僕たちはなんだかすべて忘れてしまうね、とKは湖のほとりで言ったっけか、それすらも忘れてしまったが一喜一憂はそれぞれ一喜や一憂でしかなく、喜んだその先になにが見えるのか、憂いたその先になにが待っているのか、さっぱりわからない。わからないから、無意味なバジェットを設定して、結果を眺めて、ほう、と言うだけで、このがんばりは受け身のがんばりでしかない。輪をかけて面白い。
とにかく暇な一日になっている。今は18時前で、今日はここまでお一人しか来られていない。経理をやり、それから看板の補修をし、カレーを作った。なんとなく本を開く気にもなれず、ボケっと座っている。輪をかけて面白い。

暗くなってから『重版未定2』を読み終えてこれはほんとうにすごく好きで、早く3も出てほしいと思ってから『善き書店員』の最後、仙台のジュンク堂の方のインタビューを読んでいたら気持ちが重くなってきた。書店員という職業の先行き不安みたいなことが話されていて、僕も今のこの仕事をいつまで続けられるのだろうな、と考えだしたら暗くなった。

将来のことについては、たしかになかなかむずかしい側面もあるのだろうなとは思います。私と同世代の書店員で結婚してやめていく人もいます。このままずっといまのままではいられない気がするからとやめて別の仕事に就いている人もいます。私自身はいまの雇用形態で働いて長くて、ずっと本屋でいたいし本のそばにいられたらいいなとは思うんですけど、どうなるのだろうなと。このまま四十歳、五十歳、六十歳と年齢を重ねていくのは、想像できないことでもないけれども、現実的にそれでやっていけるのかどうかはすごくむずかしいだろうなと思うわけです。 木村俊介『善き書店員』(p.282)

村田の仕事っぷりがかっこいい。もちろん村田修一のことだ。

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