fuzkue(フヅクエ) - 一人の時間をゆっくり過ごしていただくための静かな店

読書日記(25)

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3月18日

人はつねに愛するものについて語りそこなうというそのタイトルがとても好ましいものとして記憶されたバルトの文章ではいったい何が書かれていたのか、プルーストのことだったか、そんな気はするが、忘れたが、人はつねに愛するものについて語りそこなうし語りそこないながらそれでもひたすらに語ろうと試行し続けることで愛するものについてなにか総体として浮き彫りになるようなあるいはなにかのうねりが生まれるようなそんなことを目指すような目指さないでただ続けるようなそんな態度で打鍵を続けていきたいと土曜日の昼、いつものように日記の更新作業というか推敲というか誤字のチェックをしながら一週間のあいだに書かれた文章というか言葉の数々を眺めながら思ったかといえば思ってはいなかったのだけれどこのところぼんやりとたまに考えることがあってこの読書日記を本の形にいつかしたいというか今年が終わったら『読書日記2016-2017』と題して自費出版というかそれがどうやっておこなわれるのかわからないがそれをしたいとなんだか思っている、ただただだらだら続く日記をひとつのパッケージにしたいとうっすらと思っているというかやったら楽しそうだと思って考えて楽しんでいる。去年の10月に始めたので今月で6ヶ月でここまでで30万字くらいで、だからこのペースだと2017年が終わるまでには70万字くらいにはなりそうで、1000で割ったら700ページ、2段組で1ページ何文字くらいまでおさまるものなのだろうか、と思いながら今日もホームパイを食べている。スーパーで買うならホームパイで横の薬局で買うならアルフォートというふうになっている、たまにホームパイとアルフォートが揃い踏みすることがあってそういう日は豊かな日だといえる。今日はホームパイのみで臨んでいる今は13時50分で土曜日はいつも昼にこうやって書き始めて忙しくなったら手が離れて終わるそういう流れになっているが今日はどうなるかとやはりいつもそうなっているように今日はどうなるかということが今日もまた書きつけられた。本にするなら日付けに曜日は振ったほうがいいかもしれないしタイトルは『フヅクエの読書日記2016-2017』の方がいいだろうかしかしそれはなんのためにいいということなのか。

17時10分、衝撃的な暇っぷりで衝撃を受けている。それで『パリ・レヴュー・インタヴュー1 作家はどうやって小説を書くのか、じっくり聞いてみよう!』を読んでいたところずいぶん読んでいる。トニ・モリスンが終わってアリス・マンローが静かに話していて「ジェリーはここの出身ですね、あなたが育ったところから20マイルも離れてません。かれが語る逸話とか思い出話は、最初のご主人のジムのよりもつかえますか?」という「配偶者をいったいなんだと思っているんだwww」という問いが発せられて愉快な心地になったがそれにしても暇で衝撃を受けているし悲しい辛いやるせない心地になっている。トニ・モリスンは僕はずっとジム・モリスンとどう違うのかを知らないままで生きてきたし女性だとも今回初めて知ったしアリス・マンローは読んでみたくなったけれど短編の名手ということで僕はどうも短編小説をあまり読みたい気持ちになることがないので気持ちがささくれだってきて悲しい辛いやるせない仲間以外に回す愛は持ち合わせいないし仲間か敵かを判断する僕の判断はそもそも間違いばかりが起きているんじゃないかと敵だと判断したあとに思うことは多々あるから簡単に判断しない方がいいだろうとは思うけれど僕は人間がまるでできていないからなかなかそうもいかないでいくつかの損をしながら生きることになっているし昨日の夜中に商店街の通り沿いにあるとんかつ屋さんが1階で2階にはバーらしき店が入っている建物の前にたくさんのパトカーが集まってきてけたたましく音を鳴らしていたのは9時頃だったと思うけれど僕が通ったときは音は鳴らしていなかったけれどまだそれらはそこにあった、1時は過ぎていた。その前を今朝通ったらまだたくさんの警察車両があって黄色いテープがとんかつ屋さんの扉の前もそうだったし2階に通じる階段のところにも、だから建物全体を進入禁止にするような張り方で張り巡らされていて映画であるとかでよく見るように中に入っていい何かしらを有した人間の方がそのテープをくぐって中に入っていったのを見かけたためテンションが上がった。けっこうな人だかりができていて車がやってきたときも人だかりの人を轢かないように徐行しないといけなかったし僕はその横を自転車で過ぎて買い物に出た、帰りには人の数はもっと増えていた。初台にはこういうところがあるような気がしていて餃子の王将ができたときスターバックスができたとき先日磯丸水産ができたときどれもとりあえず人はそこに集まっていく。他の町にいくらでもある店だということをまるで知らないかのような、そんな様子で人がたかる。初物の見物が好き。魯鈍という言葉を覚えた。

20時17分、営業中に130ページほど本が読み進められた結果『パリ・レヴュー・インタヴュー』は読み終えられた。なんだか面白くてとんとこ読んでしまった。2も買おうかな。それにしたって暇でいま目の焦点が合わないので由々しい。

3月19日

届いた『三月の5日間』を開いたらすぐに「あ、これは、ダメだ」となって閉じたのは「それでほんとの第一日目はっていう話をこれからしようと思うんですけど、「あ、昨日の夜、六本木にいたんだ」って、えっと、六本木で、まだ六本木ヒルズとかって去年の三月ってまだできる前の、だからこれは話で、ってところから始めようと思ってるんですけど、すごい今って六本木の駅って地面に地下鉄から降りて上がって、それで上がったら麻布のほうに行こうとか思って坂下るほう行くじゃないですか、そしたらちょうどヒルズ出来たあたりの辺って今はなんか歩道橋じゃないけどなんて言うかあれ、一回昇って降りてってしないと、その先、西麻布の交差点方面もう行けないようになっちゃったけど今は、でもまだ普通に一年前とかはただ普通にすごい真っ直ぐストレートに歩いて行けたじゃないですか、っていう頃の話に今からしようと思っている話は、なるんですけど、」とこれは2ページ目でこの「すごい今って六本木の駅って」あたりで閉じてそれはこみ上げるものというかグワグワとうねるものが大きすぎたというかグワグワとここから圧倒的にうねっていくことがわかりすぎてそれは営業中のいま読むべきものではなかった、なので今日は店じまいをしたらこれを読む夜にしようと思ったそれは13時3分のことだった。
昨日の夜はサエールの『傷痕』を読んでいたところバカラにのめり込む男のことが描かれたあとにひたすら雨の町を移動し続ける男の章になって相変わらず執拗でコンビニの前には座り込んでいる若い男女がいて背中を見せている方の女のジャンパーかジャージかの背中には「anti social social club」と書かれていてその横を通るときに男が韓国語を話して女はそれに日本語で答えているように聞こえた。賭博に身をやつす男の姿を見ているとどこか、店を営業することも同じようなことに思えてくるというか、秩序のなさというか、バカラのその場における判断は読んでいる限りまったく意味のないもので、それは「今日は何人くらいお客さんに来てほしい」と僕が日々願うその願い方と大差がないように思えた。「先在性の無秩序、共存性の無秩序、未来の無秩序がある。これら三つは、顕在的あるいは潜在的な状態のなかで、共存の関係におかれている。」だから僕はその無秩序に無秩序を足すような願うという行為以外のなにかを以って「今日はいい日だった」とかどうだったとか言えるようにならないとただ無秩序に弄ばれるだけのことになってしまう、と昨日思った、それはだから、なんだろうか、一日一記事はブログを書くとか、それが難しいなら一日一投稿はSNSでするとか、そういうつまらない話だろうか、でも実際そういうことの積み重ねでしかなかったりするのかもしれない、と思うのだが、どうか。と、店というものをやり始めてもう5年以上が経っている人間がいまだにこんなことを言っているのだから学ばないというかろくでもないと思った。イアン・マキューアンはインタビューでインタヴューで一日600語は書くようにしていると語っていたしアリス・マンローも毎日書かないと気が済まないと語っていた。

最近は、止まっちゃうんじゃないかという思いに少し怯えているところがありますんでね——書く手を止めたら、永遠に書くのを止めてしまうんではないかというような。アイデアの在庫はあるんです。でも、大事なのはアイデアだけじゃないし、テクニックやスキルだけでもない。ある種の興奮と信仰がないと、仕事はできません。昔はそれがなくなることはぜったいなかった、まず尽きることがなかった。でも、いまは、それがなくなりそうだなと感じるときがときどきあって、いろいろやりくりすることもあります。(…)いまのわたしは、すべてをなくすかもしれない、かつては人生に満ちあふれていたものをなくすかもしれないという可能性をすごく意識してます。おそらく、続けること、さまざまな動きのなかを進んでいくことをやらなければいけないんです、そうすればそういうことが起きるのは防げる。(…)だからわたしは続けてるんだと思います。ええ、一日たりとも止めません。毎日のウォーキングみたいなものです。いまや、その運動をしないと、わたしの体は一週間のリズムを失ってしまいますから。終始、見張っている必要があるんです。 パリ・レヴュー・インタヴューⅠ 作家はどうやって小説を書くのか、じっくり聞いてみよう!』(p.363-364)

3月20日

ずいぶん髪が伸びてしまって気持ちが悪かったし諏訪に行ったときに初日に上諏訪で1000円ちょっとカットに入ったところ髭はやれないということで諦めて2日目に下諏訪で1000円カットがあると聞いたので行こうとしたところ電車等の時間を鑑みて諦めて、それで今日は開店前の仕込みはほとんどないというか昨夜にだいたい終わらせたので早起きをすれば行けると踏んだため早起きをして向かったところ開店直後だったがすでに5人待ちとなっておりしかも土日は2人体制のところ祝日は1人体制と貼り紙がありということは100分は待つということになるので諦めてすぐにバリカンをポチるに至った。10000円くらいはするのかと思っていたらもっとも売れ線のパナソニックのものが5000円弱で、こういうときは多勢に従うのが正しいと僕は思っているふしがある、デジタル一眼レフを買ったときもそれに従った、それでそれを買った。気になることはないか、と言ってももはやそれを買うことは決められていたし5mm前後のアタッチメントがありさえすればそれで満足だったのだけどレビューをいくつか、最初の2つだけというか最初の1つと2つ目の導入部「セルフカットを実践している人の多くは、失敗が許容されやすい丸坊主あるいはベリーショートである一方、私は、普段、スーツ姿で外回りをする仕事をしており、短すぎず・長すぎずのビジネススタイルを理想としているため、失敗は許されません。」ここまでを読んでポチるに至った。失敗は、僕の場合はいくらでも許されるのでなんだっていい。だから時間がぽっかり空いたような気の大きい気持ちになったため、なったため、と打っていてそれならどこかにコーヒーでも飲みに行けばよかったかなと思ったのだけど、思ったのだけど行かなかったことに今気がついた、朝はだから朝からサエールを読むことにした。すると読み終わった。男が妻の顔に猟銃を二発撃ち込んで殺す事件を中心というかあれにして4人の人物の視点が描かれるそういう小説だったのだけどものすごい変な小説だった。なんなんだこれは、というバカラ、ゴリラ、彼女はそれをこそ望んでいる。特に常軌を逸していたのはバカラの男のバカラのことを書いたところとゴリラの男全般でゴリラ男は執拗な執拗な執拗な情景描写でまるで初めて小説を書きましたみたいな、ものすごい細かくというか、カット割りというのがない、ひたすらに続くだいたい車の窓を通した雨が降り続ける町を描く描写は読んでいて真面目に取り合ったら頭がおかしくなるのではないかと思わせるようなものだった。なんなんだこれは。ところで訳者の大西亮による解説でサエールが本作を構想するにあたって参考にしたベンヤミンの論考にあるフランスの哲学者アランの賭博についての言葉が引用されていて「賭博の概念は、どの勝負もそれに先行する勝負と無関係であるところに成立する。賭博はすべての安定したシチュエーションを否定する。それは前に獲得された勝利を考慮にいれない。賭博が労働と区別されるのはこの点においてである。賭博は労働が依拠する重々しい過去をあっさりと放棄する」とあってだから店を営業するというのは労働というよりは賭博であることがここで示されていて今日は3連休の3日目でおとといがひたすらに読書のはかどった土曜日で昨日もずっと読書のはかどる日曜日になってしまってけっこうなところ落ち込んでいたところ夜になってからぐっと忙しくなってわりとゆうゆうとバジェットを達成した感じがありまったく変な日曜日だったのだけど今日月曜はどうなるのかそれは先行する勝負と無関係であるところに成立するし安定したシチェーションを否定し前に獲得された勝利は考慮にいれないで労働が依拠する重々しい過去をあっさりと放棄する僕の仕事においてはまるでわからない、と、いうことが、4枚切りのパンを3枚食べてコーヒーを飲んでサエールを読み終えて11時48分今これを打ちながら12分後の開店を前に思うことである。どうなるのか。知らないがあらかじめ未来は決められているそれを、僕は見るだけだ、あるいはあらかじめ決められた未来が現在となったところでそれに反応して過去にしていくだけだ。

夜が明けそめているが、水気を含んだ濃密な靄に包まれ、なにも見えない。気力を失った車体と、ゆっくり浮遊しながら、海岸通り——海岸通りが本当に存在するならば、ということだが——をかき消してしまった白い濃密な塊が見えるばかりだ。白い塊は私の視界を完全にさえぎっている。視界の中に収めることのできるものが靄を除いて本当に存在するならば、ということだが。 フアン・ホセ・サエール『傷痕』(p.266)

昨日の夜は予定通り「三月の5日間」を読んでいた、読んでいると3月20日がどうこうとあったのでちょうど同じところで僕はこの夜それを読んでいた、14年後の2017年の三月に僕は生きていていつものように金麦を飲んでポテチを食べて暮らしていた、2003年は僕は高校3年生だろうか2年生だろうかともかくそのとき渋谷で円山町でブックファーストはもちろんまだあったそのときに男と女がラブホテルにしけこんで5日間の奇跡の時間を生きていたそれは何度触れても僕は本当に気持ちがいい清々しいものだった。

女優2 それで、話を元に戻すと、この5日間だけの限定っていうか——にしようって話をしたのはどっちからだったんだろうっていうのを思い出そうとして、今、話してたんですけど、分からなかったんですけど、でも話の始まり方がどうだったかは分からないんですけど、その話をしている途中のことは、たとえば、
女優2 (男優3に)いいよねそのほうが絶対、(観客に)って言ったり、(男優3に)いいよねそのほうが絶対、
男優3 うん
男優3 や、怒んないと思うから言うけど、別になんか、そんな、いつまでもそしてこれからも、みたいな、
女優2 うん、
男優3 逆か、これからもそしていつまでも、みたいなの、やりたい? とか思わないでしょ俺と、
男優3 や、ほんと「うん」って言っていいから、お互いだよね、だって、
女優2 うん、
男優3 うん、それってでも別にこういう、いつまでも系と(天秤を示すようなしぐさ)ランクの上下があって、上田から、いつまでも系、みたいなことじゃ、絶対ないじゃない、
女優2 うん、
男優3 分かるでしょ、
女優2 分かるよ、
男優3 分かるよね、でも、それってすごい、結構奇跡かもって思うよ、そういうこと分かる人と超スペシャルな5日間だったと思うんだよね、ほんと俺、
男優3 (男優1に)そういうことほんとみんな分かってたら、戦争とかも起こんないだろうねって思うんだよ、って思ったんだけど、そのときはなんかでも、言わなかったけど、
男優1 うん、
男優3 だから、(女優2に)分かるよね、でも、それってすごいよな、結構奇跡かもって思うよ、そういうこと分かる人と超スペシャルな5日間だったと思うんだよね、ほんと俺、 岡田利規『三月の5日間』(p.83-84)

なんでこの場面がこんなに好きなんだろうか、生きることの、自分らしくとか、いいたくないが、ありのままに、とかいいたくないが、自分らしくありのままに生きることそれを勇気づけてくれる他者が確かにこの世に存在していること、法や社会規範みたいなものと関係のない自分のありようみたいなものをそのまま受け入れるというか頷いてくれる他者が確かにこの世に存在していること、そのことがうれしくてありがたくてしかたがないのかもしれない。ロブスターをつかみながら男がわちゃわちゃとテンパっているのを女がゲラゲラ笑いながら写真に撮ろうとするであるとか、お前がお前のままでいてくれて俺ほんとよかったと思ったよと男が言って女がその言葉を聞いて私はこれからも生きていける気がしましたと言うであるとか、どう考えても目指すべき道ではない街灯の連なりがなんとなく面白いからというだけでそちらの道に行きたいような気分を男が持っていたら女もまったく同じように持っていてどちらからともなくその結果として公園に続く道を進む合意形成をするであるとか、そういう、あれとこれがふたつ美しい化学反応というか肯定すること肯定されること、肯定し合えること、そういうひとつひとつが生き続けることを許してくれる、そういうことの描かれ方のひとつの代表のようなものとして僕はこの作品に描かれる5日間を見ているのだと思う、

3月21日

生きて生きて生き抜きたい、と打ったのがなんのためだったのかはよくわからなかったが最近オーブンの調子がおかしいというかどこかでメイカーの人かなにかに来てもらってなにか見てもらうほかないのだろうかというところがありショートブレッドを焼いている。昨日の記述のあとでぐっと忙しくなりひいひいとそれなりに言いながら労働したあとで暇になったので人からいただいて開いていなかった栗原康の『はたらかないで、たらふく食べたい』を読み始めたら、最初いくらかいらいらしたそれはきっと内容がどうこうというよりは言葉の使い方というかひらがな多用の表記が肌に合わないような気がしたせいだったと思う、「じつのところほんとうにものを考えてうごくことなんてどうでもよく、ただひとのはなしをきくだけ、いってしまえば耳だけを重視するようになった社会である」、それでイライラしたあとでそれでも面白そうなので読んでいくと閉店時間を迎えたので店を閉めて銭湯に行ったところいつもよりもずいぶんとゆっくり湯に浸かって体がそれを求めているようだった。寝る前も栗原康を読もうかと思ったけど翌日つまり今日の営業中読書に当てようと判断したため途中でやめていたブコウスキーの『パルプ』を読むことにしてウイスキーを飲んでいたら途中で意識が消えて、うたうたとうすく眠っていて、これはこれはと思って寝床に移動して寝る、そういう意識の消え方は久しぶりだったので気持ちいいというか楽しいという感じが少しあった。久しぶりに開いた『パルプ』はなんのこっちゃ話がわからなくなっていたけれどそもそも読みながらなんのこっちゃ話がわかっていたわけではなかったのでそういう状態で読んでいていいように思うので読んでいた。

ここ数日初台は先日の殺人事件のことで話題がわりと持ちきりという感じがあって、といっても僕が話す町人といえば下の床屋のおばちゃん、八百屋さんのおとうさん、お花屋さんの方、それくらいなものだけど、そういえば八百屋さんのおかあさんが今月に入ってからくらいだろうか店先に出なくなっていて代わりに娘さんが立っている、ずっと気になっていたがなんとなく聞けずにいたところ今朝はおとうさんだけだったので聞いてみるとなんとなく「あ、それはよかった」ということだったのでよかった。それはともかく先日の警察車両がたくさんやってきて黄色いテープを貼っていった日以来初台の人たちはとにかくそのことを話しているし今も黄色いテープは貼られたままで、聞くととんかつ屋の夫妻がなにかによって亡くなったということだった、刺殺という話らしく、絞殺と言う人もいたがネットで何か載っていないかと探してみるとYahooニュースのわりとすぐのところで記事が見当たってやはり刺殺ということだった。それで上の階のバーの人がその日以来いなくなっているということで、その方も殺されたのかあるいはその方が殺して逃げたのか、そういう噂話がずっと話されている。黄色いテープの貼られた建物を見ながらなにか話し込んでいる犬を抱えた女性二人組がいていかにも不安げな顔つきを作っている、現場を外から眺めていれば新事実が浮かび上がるとでも思っているのだろうか、建物から目をそらさないで話している、それでおのおのの見解を開陳し合っている、声は聞こえないが確かに開陳し合っているし、声は聞こえないが「怖いわねえ」とは少なくとも一回は言っている。正誤にかかわらずどちらがより多くの情報を出せるかの勝負がそこかしこで繰り広げられている。
昨日の夜に銭湯に向かう途中というか始まりで幡ヶ谷方向に甲州街道を走っていると歩道の向こうから自転車がやってきてとても必死に漕がれた自転車で男性が乗っておりその後ろから同じ必死さで警察官が自転車を漕いでいたそれを僕は車道を走りながら見て、見送って、二人は声は出していなかったけれどとてもあれは逃走と追走に見えて真夜中の自転車での逃走劇と思って愉快に思ったあとに今朝昨夜のその場面と厳重にキープアウトが施された建物、いなくなったバーの店主、そのことを結びつけて考えた瞬間があって本当に簡単に短絡というのは始動すると思った。ただもしかしたらまったくの無関係というわけではなく何かしらの何かで職務質問がこれまでよりも徹底しておこなわれるように指示が出ているとかで起こった何かだったという可能性がないわけではなさそうだった、重大事件の発生で、始まりだし、きっと警察も気合が入っている。なんせめったにない機会だった。それにしても「職務質問」というのもすごい言葉だなというか、僕は人と飲むときに相手の仕事の話をわりと聞きたがる傾向があるというか仕事の話を聞いていればとりあえず過ごせるように思っているところがあるので仕事のことを質問したりするのだけど僕がやっていたことは職務質問だったのかもしれないと思ったというか、職務質問というのはもっとフラットに使われていい言葉なのかもしれないと初めて思った。「はい、私はフヅクエという店をやっております。そうですね、初台の1丁目です。2014年の10月からやっております。営業時間は12時から24時で不定休ですが最近はだいたい毎日やっております」

栗原康の『はたらかないで、たらふく食べたい』、それを読むものがなくなったというかどれを読んだらいいかわからないタイミングになったので営業中に読むことにして読んでいたところ読み終えた。それから『三月の5日間』の「マリファナの害について」を読み「労苦の終わり」を途中まで読んだ。すると読書にもまったく飽きた。はたらいたうえで、たらふく食べたい。

3月22日

「自転車に乗ったところ環七をまっすぐにまっすぐに進んだ、風だけがひんやりとしていて天気はもっぱらよく、まっすぐに進んだ、すると高円寺に当たったのでネグラに行ってカレーを食べた。ネグラは友だちがおいしいよと言っていたので行った。するととてもとてもおいしかった。そこにあった「"おいしい"を巡る」が特集タイトルの『IN/SECTS』を読んでいた、ベジしょくどうの方のインタビューを読んでいた、面白かった。それにしてもカレーはおそろしくおいしかった。それでまだコーヒーを口に含んでいないといういけない日だったため野方のDaily Coffee Standに行ってコーヒーを飲んだ。それから考え事を、しないといけない日だったため今日はそれを起点にしていたのだけど新井薬師前のロンパーチッチに行って考え事をしようと思って、それでぐるっと高円寺野方と通ったわけだったけれどそれでそうやってロンパーチッチに行ってカフェオレとガトーショコラを食べた。パソコンを開いて考え事をしようとしたところ、ロンパーチッチはこれまで何度か行ったことがあってそれはもっぱら大きめの音で流れているジャズがひたすら気持ちよくてその中でおこなう読書がとても心地よかったからで、そこで初めて考え事というかパソコンを開いてのことをしようとしたところ、僕はやっぱりここは読書がいい、ここでは贅沢で気分のいい読書時間を過ごしたい、となって考え事はまるではかどらなかった、考え事をする気がまったく抜けていった、パソコンの画面を見つめていても目が吸い寄せられて眠くなるだけでまったく考えなかった。なので『三月の5日間』を開いて読んだ。それから寒くなってセーターを着たかったのだけどジャケットのジッパーが引っ張るところがいつか折れてそこに針金を入れて上げ下げできるようにしいているその針金が今日どこかで落ちたらしく着ているジャケットを脱ぐことができなかったため寒いままだったため自転車に乗って初台に向かってそのあいだもずっと寒くてフヅクエに着くと針金を装着してジッパーが上げ下げできるようになってそれでセーターを着込んで店は度し難く暇そうでいくらかスタッフのひきちゃんと話して引き続き一所懸命がんばるようにという具体的な指示を出してから店を出てバスを待ったらバスがずいぶんな遅れをもってやってきて、そういうこともあるものだと思った、急いでいたわけではなかったのでまるで問題がなく、東急百貨店前でおりて丸善ジュンク堂にエレベーターで上がっていった。本を何か買おうと思った、ぐるぐると、書棚の前を逍遥するが、俺を読んでくれよと語りかけてくる本がなかった、そういうとき僕は必要以上に意気消沈というか悄然というかほとんど絶望的な気分になるためほとんど絶望的な気分になりながら、それでも、と思ってジャック・ケルアックの『スクロール版 オン・ザ・ロード』を開いて1ページ読んでうん、これは、面白く、読める、はずだ、と思ってそれを買った。それから喫茶店の集に入ってやっと考え事をちゃんとしようとして、ある程度はちゃんと考え事をした気がした。考え事をしようとして目の前に考え事のもとになるノートというかテキストエディタがあっても、それだけを見ていても考えがまるで動き出さない、ほんとうに呆けた、何も考えない状態にしかならない、考えを動き出させるためには遊びがないといけない、遊々としなければならない、遊々としたモードに入れたら考え事のボールのようなものが転がりだして、カランカランと音を立て始める、立て始める音を聞けたらそれはいい兆候だ、焼き鳥を食べたくて餃子を食べた、ハイボールを飲んだ、考え事は頭のなかでカランカランと響き続けろ、煙草を吸ってコーヒーを飲んだ、寝る前に「労苦の終わり」が終わりを告げた」と男は書いたがそれのどこまでが事実でどこまでが虚偽なのかはその男にももうわからなかった。

ひょーひょー、とかされて、勝ち誇られてるみたいな、そんなつもり向こうないかもしれないけど、「勝ち誇ってるつもりなんてないよ」って言うかもしれないけど、その言い方がまたあれだったりするんだけど、でも分かんない、あるかもしれないし、ほんとにないかもしれないし、たぶんないんだろうけど、分かんない、
飄々、とかいって勝ち誇られてるようなの、って私が感じるようなの、って——を見て、そうですけど、私はキャパシティない側ですけど、悪いですか、それが? って思い知らされて、思い知らされて、あげく(笑)開き直っちゃったり、しかもあとでそのことで自己嫌悪になったりとか、開き直っちゃったってことに、直面させるようなことしてくるから、すごいむかつくじゃないけど飄々とするのってほんと、絶対、犯罪だと思って、ギャグじゃなくて本気で、えー、だって、悪いのはこっちなのかもしれないのは分かってるけど、でもなんか、犯罪じゃないけど絶対、別に、ただ飄々としてるだけなのは、ってのは分かってるけど、でもすごいそれ自体は別に絶対悪いとか言われないって分かってるけど、それやると絶対やられた相手はカチンとくるし、キーッてなるし、むかつかれるからやるべきじゃほんとはない、みたいなことが、世の中には絶対あるはずだと思うのね、私は、でもそういう考え方は全然一般的じゃないっていうか、そういうふうにみんな思わないから、たとえば飄々とかしてても、誰もそれを悪いとか思わなくて、でもそれ見てむかつくんだけどって思って、思うでしょ、そう思った人がむかついてー、なんかやるでしょ、やるでしょ、とか言って、そのやっちゃったことが悪いことだと、しかもするでしょ、そしたらそれを仕向けてるね、その飄々ってした態度とかだって悪いことだよ、って思うのってだめなのかな、却下?なんかでも卑怯、もしそのへん全部分かってやってるとしたらね、しかも分かんないけどどっちか。見てても分かんないし、ていうかそういうふうな見方したくないから、 岡田利規『三月の5日間』(p.153-154)

3月23日

考え事をするには少なくとも2日は必要だ、ということがよく実感される日で、昨日で頭をカランカランさせる準備が整って、今日はずっと考えてはテキストエディタに書き込み、考えては書き込み、をし続けていたら朝が昼になり昼が夕になり夕が夜になった。 僕が昨日は考えようとして考えられなくて今日考えられたその考え事は今年の日ハムの布陣であり、キーになる選手はおそらく横尾だった。それ以上はここで書く気はないのだけど、とりあえずそういうことだった。だから今日は本を開くこともなく、できるだけ仕込み等で動きを作りながら、ああだ、こうだと、考え続けていたということになった。昨日はケルアックの『オン・ザ・ロード』を買ったというのは昨日のところで書いたが、それはまだ開かれなかったし、そして開かれて夜に読まれた。「開かれなかったし、そして開かれて」の読点の前後に13時間の隔たりがあることは僕しか知らないし、実際は5秒の隔たりしかないことも僕しか知らない。つまりまだ開かれていないケルアックを開いて夜に読んだということは実際はまだおこなわれていないことでありしかし確かにおこなわれるであろうことでありテキストが現実に先行するそういうことだった、のかどうかはその男にはもうわからなかった。

猛スピードでタイプを打つぼくを肩ごしにのぞきこんで言った。「おいおい、急げよ、女たちは待っちゃくれないぜ、早くしろ」ぼくは「ちょっと待ってろ、この章をかたづけたらすぐ出るから」と答えた。そしてかたづけたのだが、それが本のなかでは最高の章のひとつだった。まもなく着替えをし、女たちに会いにニューヨークへ飛び出した。ご承知のとおり、オゾンパークからニューヨークまでは高架鉄道と地下鉄で一時間かかるが、ブルックリンの屋根を見下ろす高架鉄道のなかでぼくらは体をぶつけあい、指をふりまわし、夢中でおしゃべりした、そのうち、ぼくまでもだんだんニールみたいになってきた。結局のところ、ニールというやつは生きることに興奮しまくっていたのだ。 ジャック・ケルアック『スクロール版 オン・ザ・ロード』(p.12)

3月24日

煙草を吸いに下におりてライターの火に顔を近づけると頬と手に夕方の肌色の光が当たってその色と肌をとりまく冷たさの質感がそろそろ年末で年末年始はだらだらと終わりなく本を読む時間を過ごしに実家に帰る、それは楽しみな予定である、ということを思い出させたこのとき、僕は季節をぐるっと反転させて11月だった。これからもっと寒くなる、その予感があるそういう錯誤だった。季節の変わり目にいつも起こる季節の認識の錯誤で僕は「正月」と思ったあとに「来た来た来た」と思った。この錯誤の瞬間を僕はいつも楽しいものとして感じていた、だから楽しいものとして今日も感じた。

戯曲はだから「三月の5日間」の戯曲はだから意想外なことに読んだことがなかったということはこの戯曲集『三月の5日間』は初めて手に取った本だったからだからそれに収録された「マリファナの害について」と「労苦の終わり」はどちらも初めて触れる作品だったしどちらも面白かった、特に「労苦の終わり」は僕は読んでいてドキドキとするようだったそれは夫婦喧嘩のことが書かれていてもっともなことはいつだって簡単に暴力になりかわる。が、しかし、ではしかし、なにを言ったらよかったのだろう、と僕は、ドキドキしながら読んでいた。正解がまったくなくなった状態における適切な言動とはなんなのだろう、あるいは正解がまったくなくなった状態を作ったことがすでにもういけないことなのだからその報いを甘んじて受ける、それしかないのか、コミュニケーションはいつだって答えがわからないと僕はドキドキしながら読んでいた、というのを今思い出したので書いた。

男優4 キミの要求してることはだってそういうことでしょ、どっか別のところでそういうことはやってくれ、ウチではやんないでくれってことでしょって俺が言って、そしたら、「全然違うから、そんなこと言ってないから」とか向こうは言って、だって直接そう言ってなくても要はそういうこと言ってるだろ!って言って(笑)、そして向こうがその辺でだいたい逆ギレする、っていうのがパターンだったんだよね、いつも、どういう逆ギレするかっていうと、「ねえ、どうしていつもこういうときにね、私をなんていうの、追い詰めるような言い方みたいのしかできないの」とか言って、や、いや、追い詰めるの当たり前じゃん、今、言い合いして戦ってるところなんだから、みたいな。「なんで、いつもなんか論理的っていうかさ、すごい冷たい感じがするの、そういうのが、『キミの言ってることは要は、こうでこうだからってことでしょ、ということは、そのつもりはなくてもキミはこう言ってるってことになるでしょ』みたいな、その通りなんだけど、なんていうの、どうして必ずそういう論理みたいなとこを通さないと気がすまないわけ?って思うの、なぜ通さなくちゃいけないの?いつもいつも、それがよく分かんないんだけど」とか、えー、だって、そこを通さないとさ。どうしてかって、(笑)ちょっと、あまりにあれで考えたこともなかったんだけど、みたいな。でも、一応説明して、えー、じゃあ、どうしてかって言うとー、説明するとー、最低限っていうか、たとえば自分が喧嘩しててさ、今みたいに、それで相手のことむかついたりするでしょ、でもそのむかついてることがもしかしたら間違いかもしれない可能性はあるでしょ、だからそれを避けるにはさ、そこばっかり通して理屈っぽくてヤなやつだって思ってるんでしょ、でもそれを避けないと、カア、ってなっちゃって、全然おかしいのはこっちだよって理由でキレたりしちゃうじゃん、って言って、そしたら「だからー」とか言って、「うん、だからどうして、なんでもいいから、カアってなって、理由とか関係なくキレたりしちゃいけないの」ってそしたら言ったんだよね、あるとき。は?みたいな、えー!みたいな。
男優4 たとえば自分が、今、喧嘩しててさ、今みたいにね、それで相手のことむかついたりするでしょ、でもそのむかついてることがもしかしたら間違いかもしれない可能性はあるでしょ、だからそれ避けるために、むかついてるアタマの半分で論理的ってほどカタ苦しいものじゃないつもりだけど、一応そういうふうに考えておく必要はだってあるでしょ、
男優4 そしたら、「だからそういう必要はいつもどんなときでもあるの?私とのときもあるの?私もあなたに対してそうする必要があるの?ていうか、カアって理由なくキレちゃダメなの?ていうか私があなたの前でそういうふうにキレちゃだめ?」、や、いや、それは別にいいよ、僕の前でだったらどうなっても、「え、じゃあ、あなただって私の前で理由なくカアってキレちゃっていいじゃん?いいんだと思うんだけど」とか言って、
男優4 「理屈っぽいのがむかつくっていうか——も、あるけど、あとそういう理屈のレベルでやってると、そういうの私、苦手だからってのもあるし、なんか、『お前、もしかしてバカ?』みたいに言われてる気がするし——から、むかつくってのもあるけど、でもなんで私と、そういうところで私をやりこめようとするの、っていうかなんか論理、みたいな絶対正しい、絶対どこから見ても理論武装完璧みたいなところで私をやりこもうとするの?やりこもうとするのってことだけじゃなくて、理屈通してくる(?)、使ってくる(?)、こと(?)、が、一番むかつくんだよ」、(観客に)みたいな、あれ?喧嘩って最初の争点から、いつのまにかどんどんずれたりとかよくあるじゃないですか、 岡田利規『三月の5日間』(p.176-179)

それで、だから、今日は本当にぼーっとしている。考え事——「淺間をどう使うか」等——もまったくしていないし、じゃあ本を読んでいるかというと本には触れてもいない、それならば忙しかったのかと言われたらまったく忙しくないというか暇で本当にどうなってるんだというところだったし、いったい何をして12時間もの時間を過ごしていたのだろう、か。ジンジャーシロップを仕込んだ、ピクルスを仕込んだ、あとは何かやったっけか。あとはなにかやっただろうか、すっかり忘れてしまった、なにもかもが遠い過去のできごとだ、僕はもうここにはいない、とあの男は言ってきた、っけか。すっかり全部を忘れてしまった、忘れてしまえば簡単だった、忘れてしまえば楽勝だった、記憶を消して、あの子は今日も歩いてた、っけか、知らない誰かと、歩いてたっけか、村の、神社の境内でやったあの子は町に出た、っけか、と、歌詞合ってた、っけか、と「村の神社の境内でやった」でググったところ「この歌詞は好きですか?」云々という知恵袋が最初に出てきて「神社の境内でヤったというのが、あまりいい感じしないです(^^;」という隅から隅までクソろくでもないコメントがベストアンサーとして書かれていたので笑った、夜は『オン・ザ・ロード』を読んで寝ることになるだろう。それからブックマークバーにある「プロ野球 - スポーツナビ」のボタンをクリックして「ソフトB工藤監督、好投の和田に絶大な信頼「1年間ローテ守ってもらいたい」」というタイトルの記事を読んでその次の行動がブックマークバーにある「プロ野球 - スポーツナビ」のボタンをクリックする、というものになっていて自分のぼーっとし具合と病気みたいな「プロ野球 - スポーツナビ」に引っ張られる具合におののいた、それが、ちょうど時計が0時を指すタイミングだった。

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