本の読める店

読書日記(21)

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2月18日

我々。
もっとも恐ろしさを感じたのは何よりも終わりの女の「え?逃げる?何を言っているの?」というところだったかもしれない。彼はイラクで戦う兵士であるからこそ価値があって、彼から軍服を取ったら、「そうしたらあなたはただの田舎の青二才以外なにものでもないんじゃない?そんな男を私が愛する理由があるとでも思っている?まさかね」と女は、そうは言わなかったがそう言っていた。彼の存在全体が求められ受け入れられ触れられ愛されていたわけではなかった、彼はさっき、そう勘違いしたがそれは勘違いだった彼は兵士だから愛された欲望された、その突きつけがビリー・リンにとって何よりもこの永遠のように続く終わらない地獄のような一日のなかで苛烈な出来事だったかもしれない。しかし我々とは、なんなのか。よく言う。どの口が言う。私たちは思考を文法に譲り渡してはならない。自分だけのリズムで踊ることが肝要である。自分だけのリズム。もし文法が私のリズムを邪魔しようとするならば、その文法は私の文法ではなかったから、私は私の文法で、リズムで、を、構築いや運動するそのことで自由のようなものが得られる私は私でいられる。と男は俺の横で心地よさそうに言った。布団に横たえた半身をこちらに向けて目は閉じたまま、うれしそうに口角を上げながらそう言った。俺はその男の口を手で覆い、それだけでは鼻から呼吸できることがわかって徒労となったので細いすべすべとした首に両手を回すとできるだけやさしく丁寧に力を込めていってそれをずっと続けたため途中で向こうから温度がなくなった。彼が死んだとき、僕も一緒に死にたいって感じだったんです。ビリー・リンは言った。

「彼が死んだとき、僕も一緒に死にたいって感じだったんです」。しかし、これは正しくない。「彼が死んだとき、自分も死んだように感じました」。これも正しくない。「ある意味、全世界が死んだようだったんです」。もっと大変なのは、シュルームの死が彼をどうしようもないほど破壊したという感覚を伝えることだった。というのも、彼が死んだとき?——あるいは彼の魂が自分のなかを通っていったように感じたとき?——僕は彼のことをものすごく愛したんです。ほかの人に二度と同じような愛を感じられるとは思えません。 ベン・ファウンテン『ビリー・リンの永遠の一日』(p.285)

昨日のあたたかいいちばん春だった日から一転してそんなにあたたかくはない薄曇りの日になって淀んだような午後が流れていっているのを私はこのディスプレイを通して知っている、座ってチョコを食ってコーヒーを飲んで生きた。野球が早く始まらないかなと思いながら暮らしている。飯間浩明の『三省堂国語辞典のひみつ』は合間合間に読むのにとても適切な感じがあって、思考を文法に譲り渡してはならない。私はそう大声で叫びながら営業をしていたため静かに過ごせると思って来てくだすっていたお客さんたちは驚いた迷惑顔をして全員帰っていった。非常に申し訳ないことをしたと深く反省したし銭湯に行ってぽかぽかと体を湯に沈めたいと思った。快適な空調の大きな一面のガラスから試合を見ることのできる豪奢な部屋でカクテルを片手に安穏とした様子で談笑する彼や彼女に安易に我々などと、我々は使ってほしくないと思っている。我々とあなたたちの言う我々はまったく別物だと思う。そう言っても我々には通じないだろうが、我々はそう思っている。

などと打ちながら平和な=暇な土曜の午後を過ごしていたところ怒涛の=暇でない午後に一瞬にして変貌したのち、17時、ほとんど誰もいなくなった。前半戦が終了してハーフタイムが始まって、もしかしたらこのハーフタイムは永遠に続くように感じられるものになるかもしれないし、もしかしたらよたよたとした調子のOB試合のようなのんきなものが展開されるかもしれないし、どうなるかはxxxのみぞ知ると言うがあいつは本当に知っているのだろうか、コノ キャウノ ギリガ cudaranu(クダラヌ)、または、キコエヌ。

翼が暴行を受けた日の深夜、アパートに駆けつけた美羽は、「大丈夫?」と翼に問わなかった。それがすさまじい暴力であること、これまでその暴力を一身に受け続けてきた翼が大丈夫でないことなど、美羽には十分わかっていたからなのだろう。
それでも、暴力が暴力として禍々しくあらわれるこうした事態に、ひとは通常、言葉をなくしてなすすべを失ってしまうものだ。助けたいと思うものと助けられたいと思うものが、どんなに同じ思いを共有したとしても、その身体に暴力を受けて、自分を否定され傷つけられて惨めな思いを抱くものと、暴力を受けず無傷であるものの身体は、それぞれの皮膚によって隔てられている。それは被害を受けたものを、ふたたび孤独に陥れる。
だが美羽は突然、暴行直後の青あざがくろぐろと残る翼の顔のように、自分の顔にも、なぐられて青あざがあるような化粧をしはじめる。そして、「美羽も、くるされたみたいなかんじでやってきたよ!」と翼に呼びかける。それまで、痛みで口を開くこともできなかった翼は、自分と同じようなあざだらけになった美羽の顔を見て、思わず笑いだしたのだという。そして美羽は笑いだした翼に、「一緒に写真を撮ろう」と呼びかける。
写真は日々の生活の記録だ。だからこれは、翼が暴行を受けた記録であるとともに、美羽がその目撃者となることを引き受けた記録でもあるのだろう。そしてそれは同時に、もう二度となぐられることのない未来が訪れることを、翼に予感させるものになったのではないだろうか。
ずっとひとりで暴行を受け続けてきた翼は、何かのはずみで夫になぐられるかもしれないと怯えながら、毎日暮らしていた。そのとき翼のなかにあったのは、暴行に怯える「いま」しか見えない、時間が動かない感覚だったのだろう。それでもあの暴行を受けた日、翼は美羽に助けを求め、美羽はその呼びかけに応答して翼を助け、そしてふたりで写真を撮ることを提案した。
それはつまり、「いま」の出来事が、いずれ「過去」の出来事になること、いままで動くことのなかった時間が、ふたたび動き出すことを翼に予感させるものだ。そしてその写真は、暴行された翼と暴行されたような化粧をした美羽とふたりで写した写真なのだから、それは、いずれふたりで乗り越えてきた過去の記録にも変わっていく。だから翼は、美羽との写真を撮ることで、きっとこの先には、「いま」とは異なる地平が広がっていると感じることができたのだろう。 上間陽子『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(p.86-88)

「記念写真」という章を読んだ、すごかった。救いが最後ある、読んでいて涙ぐんでしまった、そういう気持ちよさがあったけれど、気持ちよくなんてなっていいのだろうか。暴力がこんなふうに簡単に行使されているということがおそろしかった。いったいどういうことなんだろう、と思うほかなかった。
それはともかく「暴行」が何度でも「膀胱」と変換されようとしたのだがそれは暴力をあざ笑い茶化し無効化しようとするGoogleの意志、なのだろうか。

2月19日

コノ キャウノ ギリガ cudaranu(クダラヌ)、または、キコエヌ。一歩足りない前進運動によって電車をひとつ取り逃してひなたになっているポジションに立って本を読んでいたら一日がそのように始まったらしかった、国語辞典のやつを読んでいる。「やばい」という言葉が「危険だ」ではない意味を帯びていった流れが書かれていた。

1987年の週刊誌の記事で、トルコ軍楽のCDが「やばい」と評されています。

CD帯のコピーいわく「めくるめく陶酔とノスタルジー」。たしかに祭り囃子風にも聴こえます。気分も浮かれるヤバイ魅力。困ったものです。
(『週刊朝日』1987年8月7日号 125ページ)

これを「このCD、やばい」と終止形にすると、今ふうの言い方になります。『三国』では、第6版で「やばい」の項目を加筆しました。従来の意味に加えて、
③すばらしい。むちゅうになりそうであぶない。「今度の新車は—」
という意味を加えました。 飯間浩明『三省堂国語辞典のひみつ: 辞書を編む現場から』(p.102)

何が言いたいか。トルコ軍楽のCDレビューというのがすごい用例だなというのと「むちゅうになりそうであぶない」というのがいいなということだった。言葉は面白い。多和田葉子の『言葉と歩く日記』みたいなものを読みたい。言葉は面白い。ずっと面白がっていられる気がする。幽邃。ゆうすい。人里はなれて書物に囲まれたものしずかなようす。

2月20日

昨夜はブコウスキーの『パルプ』を飲みながらウイスキーを読んでいるうちに寝たあ間違えたブコウスキーの『パルプ』を読みながらウイスキーを飲んでいるうちに寝た。あんた、セリーヌは読む?女の声が訊いた。えらくセクシーな声だった。俺はしばらく前から女っ気がなかった。もう何十年も。あんた、セリーヌは読む?俺はセリーヌは読まない。『夜の果てへの旅』をたぶん上巻だけ持っているが開いてすぐに閉じたんだったと思う、同じようにフランスで開いてすぐ閉じたんだったと思うという印象のすぐに閉じたはずだったものはジャン・ジュネの『花のノートルダム』もそうだったと思う。セリーヌとジャン・ジュネがそれぞれいつぐらいの人物なのかもよく知らないまま生きているけれど、どちらもすぐに閉じたんだったと思う、いつか読んで楽しいことが起きたらいいと思ったため起きたら働いて日中がいつになく忙しいことになってこんなに忙しいことになることを想定していない仕込みのしかたをしているので途中でおかずを切らす、仕込みを急いでというか急ぐわけではないけれど仕込みをしないと夜に出せるものがなくなるので仕込みをする、そういうことをしていたらあっというまに夜に近づいていくと雨がざあざあと強めに降った、日中に関しては風がばさばさと強く吹いていた。

19時からそして誰もいなくなった。雨はまだ降っているか?風はもうだいぶやんでいるようだ。セリーヌは読まずにブコウスキーを読もうかと思ったが眠いと思ったら大掃除をして過ごしたら眠気がだいぶ薄れて助かった。トースターがきれいになってオーブンが少しきれいになった、不用意なことをしたら爪が汚れたし痛くなった。

『裸足で逃げる』を2つほど読んでから『パルプ』を読みながら金麦とポテトチップスうすしおで晩ご飯とした。

2月21日

明日が休みでどう過ごそうか考えていて恵比寿映像祭のページを見ていると先週の木曜日が休みだった僕は三宅唱と鈴木了二の『ガレキあるいはSF』を華麗に見逃したことを知って悄然としたしでは明日のプログラムはと思って見ていたところとてもキッド・フレシノに似ている男性が口に薬をつめこんでいる写真が見当たって見たところそれはキッド・フレシノが主演している長谷川億名『イリュミナシオン』という作品だったのでこれを完全に見ようと思ったところそれは明日のではなく今日のプログラムだったことでがぜん見逃すことに対して悔しい思いをすることになった、午後1頃の話だ。
昨日は昼間がとてもいそがしいふうになってワタワタと働いていたのだが一転して今日は実に静かだ、実に静かだ、と思いながらそのように明日の予定を考えていたところ1時を過ぎてからとんとことお昼を食べに来られる方が来られていい調子で働いた。今は2時30分だ。静かだ。いくにんかの方がコーヒーを飲みながらハーブティーを飲みながら本を読んだりパソコンを開いたりノートかなにかを開いたりしている、いい光景だ、グルーパーがか細い声で歌う。僕は今日気分がとてもいい。

夜、悲しくなっていった。

上間陽子の『裸足で逃げる』を読み終えた。虐げられた人たちのことをどう考えたらいいのか全然わからない。ここに出てくる女性たち全員が幸せであり/になりますようにと、それはとても思うが、とても無責任な祈りでしかない。ここには出てこない無数の虐げられた人たちが幸せであり/になりますようにと、そこまで言ってしまったら嘘になってしまう気がする。嘘というか、世界が平和であり/になりますようにと言うのと同じレベルでなんの意味もないというか。
それにしてもここに出てくる男たちは、なんというか、本当に弱い人たちだと思った。それもかなしかった。

2月22日

夜の電車のなかで本のページを光がかすめていった。踏切の赤や街灯の白やオレンジや車の黄色がほんの一瞬ページを彩った。見ると車内の壁やシートも同じようにそうなっていて、けっきょくタルコフスキーを見に行くことにしてK'sシネマに行った。朝ごはんを食べ損ねたのでコンビニでおにぎりを2つ買ってそれを開場を待つロビーで食べたその姿は「何を犠牲にしても映画」のシネフィル青年を思わせるようなものだと思ったし近くに座っていた老人二人が昔シネフィル青年だった、たくさんの固有名詞を出しながら話を交わしていた。上映開始前に国語辞典のやつを読んでいた。するとサンキュータツオという方の解説で有名な辞書編纂者らしい見坊豪紀の言葉が紹介されていた。

〈辞書は "かがみ" である——これは、著者の変わらぬ信条であります。
辞書は、ことばを写す "鏡" であります。同時に、
辞書は、ことばを正す "鑑" であります。 飯間浩明『三省堂国語辞典のひみつ: 辞書を編む現場から 』(p.288)

それでタルコフスキーの『鏡』が始まった。30分見て、30分寝て、を繰り返すような見方をした。すると男が歩いていく草原に一陣の風がざざざーっと吹き抜けたりして立ち止まった。女の濡れた髪が踊っていて天井が崩れた。いくつものうつくしい魔法のような画面を眺めることができて僕は寝ながら見るこの見方がもっとも正しい見方だと思いながらとてもいいと思っていた。見ながら、こういう本を読みたい、こういう状態で読む本を読みたい、小説なのか、日記なのか、わからないけれど、読みたい、紀伊國屋書店へゴー、そういうことを思っていた、結果、「森にはわれわれが直感と呼ぶような、突然落ちてきたような思考に近い動きがある。どんぐりが突然落ちたりするのもそうだ。木が倒れる時間、そして倒れる角度も、わたしたちには偶然であると片付けてしまう。しかし、そうではないのだ。機械化されているわけではない。彼らと呼んでも、森は一つの共同体ではない。かつ、草一本一本に、分割されているわけでもない。それは同時にある。」という映画を僕は見たことになったと思った。実際、倒れてぱっくりと折れている木の妙に赤っぽい断面がこの映画の主人公だったと言ってもなにも間違いでないようなありかたでこの映画はあったから、この記述を見たときに僕はこれは『鏡』だと思った。これが書かれていたのは坂口恭平の『けものになること』の18ページだった、紀伊國屋書店で僕はいくつかのコーナーをぐるぐると見て回っていた、僕に必要な本は、どれなんだろうかと、思いながら、見ていた、僕の、言葉は、どこに、向かうことを、欲しているのだろうか求められているのだろうかそれが僕にできるのだろうか、そういうことで本を眺めていた、しかしそれはまったくわからない問いだった、問いの立て方はそもそも、適切なのか?
それで諦めて坂口恭平のやつとベン・ラーナー『10:04』を買ったしその前には伊勢丹の地下2階におりてルームスプレイをいろいろと試したあげくにDEICAというブランドのやつを買った、美容部員、という人たちなのだったろうか、水色のナース服のようなものを着た女性たちがたくさんいて誰が味方で誰が敵なのかは誰もわかっていなかった。伊勢丹全体を香らせている香りがあることを教わって知った、それは空調から噴霧される、そういうことが可能なことを僕は知らなかったしそうやってまったく間違ったものを噴霧させることもできるのだろうと思った。つまりxxxだった。それはいけない。だから近くの喫茶店に入って坂口恭平をチーズケーキを食べてコーヒーを飲んで煙草を吸った。遠くの席の女が叫んだ。「ほんと?じゃあ夜会おう。やったー!別に用はないんだけどさ、終わったら会おう。12時くらいには終わるから。やったー仕事がんばろ。仕事終わったらLINEするね。」それはとても僕は聞いていて本当にうれしいような態度だったからうれしくなったしできるだけ忘れないうちにメモを取った。
坂口恭平を読んだ、初めて読んだ。それはまったくもって音楽だった。何が書かれていたのか何を読んだのかどんどんどんどん忘れながらどんどんどんどん読み進める、即座に忘れながら、あるいは覚えようと努めることを放棄しながら、言葉に耳をすませる、そうしているとたまになにかに触れて響きが起こったり、メロディが立ち上がったり、これまでに通ってきた言葉やモチーフとふいに共振してよろこびに震えたり、恐れたり、しながら、止まってはいけない。加速をし続けながら書かれているように加速をし続けながら読まなければいけない、途切れさせてはいけない、そういう態度で読み続けていた。凄かった、凄い。

嘘は言わない。もちろん、書くことはすべてでたらめである。しかし、その仮の建築。足場板、配管、ネット、建設作業用エレベーターは、何もわれわれの治療、現実との適合、社会の要請、国歌の決め事のためにあるのではなく、われわれであるためであるし、二人で書くことであり、それは波、あらゆる島、そこで生きるけもの、みんなの歌、鳥のさえずり、炎の揺れ、その町、炎の町、町人、焚き火の町のピラミッド、どこにでもある遺跡、今できた古墳、生きている古墳、噴火する火山、その町、町の商店街、そこに吹く木枯らし、川、橋、橋から見た自分、その向こうの青、水面の青、無数の青になるためにある。錯乱すること。わたしは錯乱しない。言語を錯乱させること。つまり、麻薬をぶっかけること。吸引させること。無理強いではなく、魔術師の体で。儀礼ではなく、突発的な出会いで。準備もなく、アドリブで。今すぐ、今すぐ。わたしは二十八冊の文献をもとにこの本を書いた。しかし、その本は読んですらいない。つまり、本は読むものではなく、言語を錯乱にいたらせるための魔術師の薬草の一つである。それは干からびた薬草。薬草に見えないただの草。しかし、そこに死はない。草は死なない。われわれもまた死なないのだが、それは肉体が滅びないのではなく、草のように死なない。本は、一本の草、無数の草、見たことのないくさである。名前をつけることもできない草。 坂口恭平『けものになること』(p.6,7)

扉にそれなりに近い席で冷気がたまに体を撫でてきて向こうの席で吉祥寺がどうこうという発言があったその組み合わせで僕は少し前の吉祥寺の夜に寒い大衆居酒屋で寒さに震えながら酒を飲んでいた、肉はどんどん冷えていった、カラシの表面は乾いた。喫茶店を出たそのときまでに僕はコーヒーを3杯飲んだし僕はそこに流れる時間それ自体をことほいだ。少し涙ぐんでいた。夜中、なまあたたかな暗がりのなかで僕は、国語辞典を買いたいような気になったり漠然とした夢に近いまとまらない収斂しない思考が国語辞典の項目のことであるとかを天井に次々に流していってきれいだったからそれをまどろんでいた。

物語はなぜ途中で何かが起きるのだ。結末があったりするのだ。そうではない。土台を打ち込むこともしない。指を立てて、王は自ら設計を無視して、建設をはじめた。職工は町の要素ではなく、己の中にあり、城壁は八メートル以上の高さをもっていた。彼らの方角の観念は、次第に自由を取り戻し、磁石はすべて集められ、溶かされると天文台の一つ〈馬の天秤〉の上に静かに置かれた。要約などない。王は、先月退いたばかりの先代を前にして、宙空で指をかきまわしはじめた。指先は光っていた、と城壁にはいまでもスプレー缶で書かれている。どんなに掘り下げたとしても、われわれの意識が魚でなければ、いつまでも水など出てこない、と最澄は言った。彼は何よりも能書家であった。宙空の文字は、楽譜であると勘違いされていることもあり、一時は祝祭がはじまるのではないかと市場の顔ぶれたちは噂した。声は伝染する。文字を打ち込むのとは別の飛行艇は、先代の前でぐるりと旋回した。ここにすでに書いたものを、それとは別のやり方でどう語ればいいのかわからない。パンフレットやあらすじ、設計図などには常に制約があり、文字数や分数が設定されており、それを超えることができない。しかし、いまは指がある。指は羽を持っている。羽毛が落ちた。先代は横たわっている寝台から体を起こした。 坂口恭平『けものになること』(p.85)

2月23日

あんた、セリーヌは読む?俺はドゥルーズだ。僕は坂口恭平を読んでいた。と思ったが確定申告のことを少し進めたため坂口恭平は読まなかった。確定申告はあとはひとつ疑問が解決すれば形を作れるはずだった。つまりあとは税理士さんからの返信を待つだけだった。数日前にあんた、セリーヌは読む?と税理士さんに尋ねたところ俺はドゥルーズだという返信が来てそれっきりだった。それで困り果てていた。俺の赤字はいったいどこに書かれる!私は、そう、返答のないメールを表示させたディスプレイに向かって叫んだために唾が飛んでぬらぬらと画面が濡れたので指で伸ばした。指は羽を持っていた。羽は濡れて重くなってもう飛べないと口に該当する部分が言った。
昨日眠る前の時間、夜中、暗がりの中で僕は、「ナイト」と聞こえた、ちょうどそのとき僕は日中に書店で見かけたあと2日で発売というアナウンスの『騎士団長殺し』のことを考えていたから騎士団長の騎士はナイトだったし英題がどこかで読んだ気がしたが思い出せないでいた、そういうことをうとうととした頭のどこかで考えていた。それをなんでだか今、思い出した。Killing Commendatoreとのことだった。文字が頭を駆けぬけてほどけてちらばってそれからとけてきえた。

2月24日

営業中に坂口恭平を読むのはメロディが鳴り出す前に途切れてしまう感じがあってよくないことが昨日発覚したため今日は読まないで昨日の夜読んでいた、デレク・ベイリーを聞きながらというとてもわかりやすいことをしたところ衝突しあっていた、インターネットに打ち込むとSoundCloudにサウンドトラックと称されたものが2曲あってギターが爪弾かれて向こうで唸り声が聞こえていた、たぶんそれはマニドロスの血にまみれた歓喜の声だったはずだったし今朝はメイシー・グレイがジャズを歌った。煙草を吸うことが趣味なので煙草を吸いながら聞いた、コーヒーを飲むことが趣味なのでコーヒーを飲んでおいしがった。True Heart Susie、僕らはあの頃に戻って、アテネフランセの2階だったか3階だったかの劇場の出口からまっすぐ行ったところの喫煙ができる場所で涙ぐみながら、スパスパと煙を吸っては吐いてをしながらスージーのことを話していたその一人があえなく階下に落下したのは記憶にいつだって新しい。人間の体は重い物のたくさん詰まったバッグみたいなまっすぐ具合できれいに落下していって情けとかではなく物理の音をさせた。もののことわり、というのはこういうことか、と僕らのうちの全員が納得したのをよく覚えている、明るい紫の建物を出て左、線路が向こう、線路と東京ドームシティが向こう、右に行くか左に行くか、左に行ったら水道橋で右に行ったら御茶ノ水だった、だろうかそのとき僕は新宿まで戻り、それから小田急線の快速急行藤沢行きに乗り込んだ、のだろうかオレンジ色だったか赤色だったかのサインが乗るべき電車を示していたはずだった町田、相模大野。

痛みを感じなければ、さぞのんびり暮らせるだろうと思われるかもしれないが、現実はそういうものではない。痛みというのは、組織にダメージを与えるような刺激への反応として生じる。痛みがなければ、刃物や熱湯や有害な化学物質を避けることも学べない。先天性の無痛症の人は常時けがをしている。知らないうちに自分で舌を噛み、骨を折り、関節をすり減らし、ゴミの入った目をこすって角膜を傷つける。成人になるまで生きている者は少ない。パキスタンで屋根から飛び降りた少年のような派手な亡くなり方は多くない。むしろ、日常的な組織の損傷から死に至ることが多い。たとえば合わない靴を履いていて足を痛めたり、熱すぎる飲み物で食道を傷つけたりするのだ。きつすぎる下着が腹部の皮膚を傷つけていたという例まである。患者には、こうした傷から感染症に至る危険が常にある。
この症状を持つパキスタン人の子供たちの脳画像や腓腹神経の生検結果は正常だった。第3章で見たノルボッテン症候群の患者とは違い、この子供たちには、信号伝達の速いAα線維から遅いC線維まで、正常な感覚神経線維がすべて揃っていた。
DNAを解析したところ、6人の子供全員にSCN9Aという同じ遺伝子に変異が見つかった。 デイヴィッド・J・リンデン『触れることの科学』(p.173)

2月24日、坂口恭平を読むわけにもいかないので何か読む本をと思って『触れることの科学』を久しぶりに取って読んでいたらこの本を初めて開いたのはちょうどひと月前の1月24日渋谷の名曲喫茶ライオンでのことだったその座っていた席と明るさ暗さと寒さとのちに熱さを思い出した、足が冷たくなったあとに座る位置を変えて足をヒーターに差し出していたら熱くなっていったのだった、ココアを飲んでいたのだった。私はそのときも眠くなったしまた今このときも眠く、営業をしながら船を漕いでしまいそうですらあった、仕事がほしい、が見当たらない。

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