本の読める店

読書日記(2)

Entry blog fuzkue392

10月8日

私は一人で東京に放り出されてから、自分が参考にできる人を強く求めていた。雑誌に載っているような人たちの生活はとても真似できないから、自分と同じような立場の人がどんなふうに生活しているのかを知って、そこから大きくはみださなければ大丈夫だし、その人と同じくらいにはみ出すのは大丈夫だと思っていた。雨宮まみ『東京を生きる』(p.125)

月一回1000円カットに行って「今日も」「はい」と頭から髭までまるまるっと5ミリのバリカンでいく、というのが僕のヘア〜スタイルのすべてで、頭髪よりも髭の方が伸びが早いらしく、ちょっと髭伸びてきてみっともないかもな、となったら床屋に行く。ので行った。待っているあいだ『東京を生きる』を読んでいた。ラジオが流れていた。今日は大学の学園祭会場からの生放送とのことで、それは見ていて楽しいものなのだろうか。まだ途中だけど雨宮まみは他の本ももしかしたら手に取りたくなるような気がしてきた。共感したり同調したりしたところで何も生まれないけれど、あ、その感覚、というのを言語化してくれているところがいくつもあり、まだあるんじゃないか、いろいろ、みたいな期待が、ある、から読みたい、のだろうか、わからない。夢のなかで走っているがまったく前に進まない、みたいな話が書かれていて、僕もしばしば見る。「ひどく大げさな身振りで一歩を踏み出すのに、十センチぐらいしか前に進んでいない。スローモーションでもがいているような」とあり、ほんとそんな感じで。雨宮まみの場合は「もっと速く、力いっぱい走れたら気持ちいいのに」という性質のものらしいが僕の場合は何かに追いかけられているのですごく焦っている。

どれだけ暇を持て余していても営業中に本を開く気にはなかなかなれない。

10月9日

簡単にイライラしながら生きている。

泥酔した友達が、「魂に正直に生きるんだよ!」と立ち上がって叫びだし、店にいるほかのお客さんからの喝采を浴びる。」雨宮まみ『東京を生きる』(p.211)

暇で、前言翌日撤回で営業中でも本を開く気になったので『東京を生きる』を読んでいたらなんだか泣きたい気持ちになっていった。欲望を同定すること、と、もう一年くらい言い続けている気がする。どこ?どこにいるの?と言い続けて一年ほどが経った。欲望に、魂に正直に生きるためにはまずその声を聞き取らなければならないわけだけど、聞こえないよ!なにも聞こえないよ!と言い続けて一年ほどが経った。欲望の声を聞きたい。と、ずっとそう思っていたら、ここひと月くらい何かささやきのようなものがかすかに、かすかに聞こえてきた気がしている。その一つの現れが読書会の企画だったのだろう。もっと、もっと。ととても思う。

10月10日

半袖がしんどくなってきた。一体なにを着たらいいのか。
八月の光』が盛り上がってきた。ハイタワー牧師が「わしはせん、わしはせんぞ!」といきり立っているのだけど、昨夜そういった箇所を読みながらも頭がどうにも「どうやったらちゃんと稼げるのだろうか」という非常に身近な話題に引っ張られてしまい、何についてハイタワー牧師がいきり立っているのかもよくわからない程度に文章を追えなくなったので諦めて本を閉じた。

10月11日

みじめなきもちになっている。
昼労働がやたら暇で(最近波が激しすぎる)、マジで暇だなと思ってパソコンの前でぼーっとしていたら3名さんが入ってこられて「神」とか思いながらちょうどソファの席はお二人さんが座られていたのでカウンターを案内したところ「横並びかあ」という声が上がって「また来ます」と言って帰っていかれて、無念すぎると思って、なんで横並びじゃ不満なんだよ、なんでこれだけガラガラなのによりによってソファだけ埋まってるんだよ等々、貧しい自分勝手なことを思っていたらそういう貧しい自分勝手なことを思う自分の貧しさ自分勝手さなさけなさにものすごいみじめな気持ちになった。なっている。

映画を見ようと思ったら直前に見る気がなくなったため書店に行った。雨宮まみに続いて何かエッセイが読みたい気がしていたが読みたいものがなにかわからなくなり、それで速水健朗『東京どこに住む? 住所格差と人生格差』と『デジタルで変わる マーケティング基礎』を買った。前者は数日前にインタビュー記事かなにかを読んで「東京」と思ったためで、後者はふと目に入って「マーケティング」と思ったため。
雨宮まみの他の本がないか調べようと思って検索の機械のところで順番待ちをしていたところ、検索をしているスーツ姿の女性がキョロキョロしていてそれから僕を向いて「おくわしいですか?印刷したいんですけど。読まなければいけない本なんですけど在庫がないみたいで。データベースを印刷しておきたくて」とわりと慌てたような口調で言ってきたので「詳しいってことはないですけど印刷くらいなら」と返して印刷ボタンを押そうとしたところ店員の方が通り掛かったので女性は改めてそちらに話を振った。いくらか話した末に彼女たちはサービスカウンターのところに向かっていった。わりと急ぎで読まなければいけないみたいなのだけど在庫がなく、取り寄せて店舗で受け取る、ということにしたらしいその本の画面を見ると大きな文字で「ナジャ」と書いてあって、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』を読まないといけないことになってAmazonだったら翌日には手に入れられそうだけど取り寄せでよくて仕事をチャキチャキやりそうな雰囲気を持っている同年代くらいの女性で、という全部が噛み合わなくて愉快だった。会計のときに横のサービスカウンターで取り寄せの手続きをまだしていて、僕はAmazonだったら翌日に手に入ることを伝えることとどんな経緯でそれを読む必要が生じたのか聞くことがしたくてタイミングが合ったら声を掛けようと思ったが特にタイミングは合わなかったのでそのビルにあった献血センターに行って12年ぶりに献血をした。もしタイミングが合ったとしても歩く調子がすごく速い可能性があるので僕では追いつけなかったかもしれなかった。
それでなぜか献血をした。時間がぽっかり空いたのと、献血の呼び込みを見かけ、本でも読みながら献血でもしようと思ったらしかった。
最初に血の検査かなにかで採血をされた。しばらく心臓より高く上げておいてくださいと言われた手を見ると紙製のリストバンドが手首にありそのリストバンドに貼られたシールに「東京 B型01-1727-3740」とある。それは2月か3月に読んだ速水健朗の『東京β』を思い出させるのに十分な情報だったため「シンクロニシティ」と思った。
僕の手は冷たいらしく血の動きが鈍いということであたたかいものを最初血を抜く左手でつかまされ、それからその手にブランケットが掛けられ、まだ冷たいということでお腹の上にあたたかいやつがもう一つ置かれ、その上にまたブランケットが掛けられた。あたたかい格好で横たわる僕の目の前に据えつけられたテレビで来週のゲストかなにかとして雨宮まみが紹介されていたため「シンクロニシティ」と思った。
献血係の同年輩の女性が僕の手をあたためるためにぎにぎした。もちろんこれが仕事中ゆえの触れ方であることは百も承知しているけれど、こういう仕事をしている人は他者に触れることへの恐れが少なかったりはするのかもしれないなと思い、それを何か羨ましいことのように感じた。

『淵に立つ』を見た。
何かが起きている、動いている、というのは安心で、なぜならそれはもう起きていて動いているからで取り返しはつかないけれどもそうなった以上そうなる以外に起きうること動きうることはないからで。それよりもまだ起きていない、まだ動いていない、という未然の状態の不穏さ。起きうる、動きうる、の緊張。それが素晴らしかったというか凄かった。役者の体といい、それを切り取るカメラの距離といい、あらゆることが起きうる、見る者は勝手に予期し続ける、恐れ続ける、その状態の持続がおそろしかった。だから、逆に、起きてしまった、動いてしまった状態になると見ていて楽で、それがどれだけ悲劇的なものであれ官能的なものであれ。
浅野忠信、筒井真理子、古舘寛治、主人公のこの3人の演技はちょっと途方もなくすごかった。浅野忠信は立っている姿だけで常に不穏だったし古舘寛治はその変貌のありようが頭おかしかった。けれど、映画を見ているあいだわりと自然に受け止めていた筒井真理子のあからさまな変化、というか体の上に時間が経過していっているとしか思えない様子が、よくよく考えるとこれが一番すごい気がした。役者ってすごすぎるだろ、と思った。

喫茶店に入って『東京どこに住む?』を読む。今は皇居を中心にしたときに都心中の都心の人口が増えつつあるらしい。中央区とか千代田区とかそういうあたりの。イーストなトーキョーが栄えつつあるというよりはど真ん中とほんの少しイーストが栄えつつあるらしい。先週通った人形町とか東日本橋とかそういうあたりの。そういう場所であったりオフィス的な町を歩くとき自転車の人とかを見かけるといつも「近くにスーパーあるのかな」とか思っていたのだけど、そういう場所にこそ今人は移りつつあるらしいと読み、「そうか」と思った。

たぶん彼は、坐って、馬車のゆれるのに身をまかせながら、眠ろうかと考えているのかもしれぬ。彼は眠くも空腹でも疲れてさえいない。眠気と空腹と疲れ、彼はこれらの二つの中間か三つの中間にいて、ぶらさがり、馬車の動きに揺られて何の考えも持たずにいる。彼は時間と距離の観念を失っている。『八月の光』(p.439)

この箇所を読んでいるとき、なぜか幸せだと感じた。

なんとなくふてくされた気分になったためふてポテチとふてフォークナーをキメて一日を握りつぶした。

10月12日

今10月14日で、二日前のことを思い出そうとしているのだけどあまり思い出せない。フォークナーを読んで寝たであろうことは間違いないけれど、それも記憶というよりは推測にすぎない。2週目にしてこうやってグダグダしていく。

10月13日

読書会があったため夜の始まりが遅いこともあって、webの写真を新しくしようと思っていたため友人のカメラマンに来てもらって2回目の撮影をした。1回目は9月の後半に阿波おどりのためやむなく連休にしたときにやった。
三脚を立てられない場所でカメラを安定させるときに本を台にしていて、見るとその中にボラーニョの『第三帝国』があった。日記を始めたのは『プリズン・ブック・クラブ』の影響だとばかり思っていたが、もしかしたら『第三帝国』の影響もあったのかもしれない。日記という形式の危うさ、妖しさ、みたいなものに何か、近づいてみたかった、とか。そういえば『野生の探偵たち』も日記形式だった。

読書会でアンソニー・ムーアの『すべての見えない光』を読んだ。

彼女の手は、休むことなく動き、集め、探り、試す。(…)彼女は学んでいく。なにかに本当の意味で触れることは、それを愛することだ」(p.32)

10月14日

やっと今日に追いついた。読書会でテンションが上がったらしく第2回の告知やら第1回の開催後記やらを書いたりアップしたりするのに忙しく、「忙しい、忙しい」と言ってふと目を上げたら店は激烈に暇だった。
と思ったら遅い時間からけっこうたくさん来られてとても安心した。相変わらず一喜一憂しかしない。

閉店後、ジムに。数日前まで走る格好であるところの半袖とハーフパンツで歩いていたのが、冬用のジャケットを羽織って向かった。
走りながらC.O.S.A. × KID FRESINO『Somewhere』を聞いていたらやさしい気持ちになった。途中で久しぶりにROTH BART BARONを聞いたらとても冬と春を思い出した。それもこれもジャケットを羽織ったせいだった。フォークナーがそろそろ終わる。読み終えて、それで『すべての見えない光』に没頭したい。

『丘なんて我慢できるさ。人間というものは、できるものなんだ』七年間なじんだ丘は、平和で穏やかだ。『人間というものは、たいていのことなら我慢できるもんだなあ。自分がけっしてしなかったことにさえ耐えられるんだ。人間は何かの場合、それがいかに自分にとって耐えられないことかと考える忍耐さえあるんだ。気をゆるして泣いていいときにさえ、そうしないで我慢できるんだ。振り返ろうと振り返るまいと自分には何の役にもたたないときでさえ、振り返らずに我慢できるものなんだ』 『八月の光』(p.548,549)

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