ぼくは何だかすべて忘れてしまうが 〜保坂和志『朝露通信』を読んで

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小さいときの記憶というものがほとんど見当たらない。というか小さいときに限らず、手持ちの記憶みたいなものがほとんどないようにも感じる。
そんな人間が中学3年生のときにナンバーガールを聞いて、omoideの絶叫に震撼し、「思い出すっていうのなんて凄いことなのだろう」となった、なりつづけた、いまだにそうである。基本的に思い出せないからこそふいに立ち上がる過去の何かしらにしたたかに打たれるのだろうか。
よくこんなにあれこれ覚えているな、というのが『朝露通信』を読んでいてずっと感嘆していたことで、普通に覚えているものなのか、それとも何かきっかけを捕まえて、そこから類推と検証みたいな感じで先へ先へと掘っていくのか、いい鉱脈に当たれば一突きですっと開ける、みたいなことがあったりするのか。
と思っていたらあとがきで「四十年前五十年前に話したり私と遊んでくれた人の表情や言葉の響きが、ほんのニ、三日前のようなリアルさでしょっちゅう浮かんでくる、それは記憶というより記憶という引き出しに整理して仕舞われる以前の生き生きとした断片のようだ」とあり、「俺、そんなの全然ないですわ」と思って自分の乏しさが残念なことのような気になった。体験の感受の濃度が違うのか、僕の何かが欠損しているのか。
そんな「思い出せない人間」にも様々なことを思い出させてくれるのがこの小説だ、というのは雑だが、そういうことが何度もあった。
光景を頭のなかで再生させながら読んでいると、ふいに「あっ!」という瞬間が訪れる。過去のある場面の感触が全部一気に戻ってくる。でも次の瞬間には取り逃している。あれはなんだったんだ、とその周辺のセンテンスを読み返すが、もう「あっ!」は訪れない。そういうことが何度もあった。あの「あっ!」は前後のいくつかのセンテンスによって生み出されるのではなくて、それまでの読書の時間の持続の中で生まれるのか、いる場所や鳴っている音など環境全部が作用して初めて生まれるのか。
そういう「あっ!」だとか「なんと!」みたいなものに導かれるままにたくさんのページを折りながら読んでいった。あれらの感触はもはや遠く、折り目箇所の再読などでは戻ってこないのだろう。読書は再現不可能なライブなんだということがよく実感される。「小説は読んでいる時間の中にしかない」という、保坂和志がこれまで散々言ってきたことを繰り返しているだけだけど、本当にそう感じるのだから仕方がない。そしてそう感じさせてくれる小説はやはりそうないわけで。
何もかもを忘れきった5年後10年後にもういちど読んだとき、僕はどこでどう反応するのか。豊かで驚きに満ちた、そしてわけもわからずただただ楽しい時間の持続をこれから先何度でも体験できると思うと、それはとても嬉しいことだ。これはそういう一冊だ。