本の読める店

変節の時なのか

Entry 290

わをもってとうとしとなす(^_^;)

まいいやというか今なんでこれ打たれたのかまったくの謎なんですが。まいいや。

仕組みを変えました、ということがおこなわれたのは2週間前くらいだったと思うのだけど、そのときに飲食のメニューに至るまで12000字くらいの文字が費やされました、こいつは大変だ、ということが書かれたか書かれなかったかしたのだけど、1週間後、6000字くらいまで、つまり改定前とほぼ変わらないくらいの量までのダウンサイジングがおこなわれた。
1ヶ月掛けて、どうやったら伝わるか、読んだ人全員にすんなり理解いただけるか、あわよくば共感いただけるか、この単語はよくないのではないか、ではこれは、等々の調節をずっとおこなっていた6000字くらいを、ローンチ(ローンチwww)して1週間でほぼ消したというか前面からはなくしたという格好だった。
あの1ヶ月はなんだったんだろうと思わないでもないのだけど、いざ出してみたら、出した途端に、「え、こんなに言葉、必要ないんじゃない…?」という気分になってしまったのだった。なんで先にそう思えなかったのだろうと思わないでもないのだけど、駐車場での夜な夜なの素振りと、バッターボックスに入って投手と対峙して生きたボールを打つのだと、また感じ方や見える風景も違う、というところでしょうか。明日神宮行こうかな。行かないかな。そもそも席あるのかな。まいいや。

「なんか野暮だな」と思ってしまった、ということだったのか。かつて「どれだけ野暮でもいいから言葉を使って伝える、ということを選んだということ」と書いたのだけれども、気分が変わったのか。気分が変わったとしたら、それはずいぶんな変節なんじゃないか。
実際、少しは変わったような気はしていて、「この野暮ったさをずっと続けていくことはあまり得策ではないのではないか」という気がかすめたりというのはあって。
これは友だちから指摘されたことでもあるけれど、ちょっと若さに頼りすぎているというか、若いからこそ成立する言葉というか態度になっているような気がしたりはして。これは40や50になっても通用する態度なんだろうかというか。そこまで考える必要はないかもしれないけど、考える意味もあるような気はしていて。
言葉をいたずらに重ねずとも、毅然と「何か?」とでも言っておく、言い放っておく、言い放っておいても「そうだよね、納得」と思ってもらえる店にしていく、というのが目指されるべき方向じゃないのか。
とか。思ったりっていうのはちょっとしたり。っていうのは実際あったり。

なので、「これ格好わるいわ」というところなのかなと、今回のダウンサイジングに至った気分はそれなのかなと、最初そう思ったのだけど、よくよくと考えていったらたぶん違って、「この場所で心地よく過ごしていただくため」という、この店が言葉を用いることの最も大きな理由を考えたときに、そこに書かれた6000字とかの文章が、心地よさに対して特になんらの影響も及ぼさないように感じた、ということだったのじゃないか、というところだった。
少なくとも前面に押し出して、「読んだらきっともっといい時間過ごせるよ」という顔をする文章じゃないというか、あくまで「読んだらより店の気分がわかってまあ興味深いとは思うよ」という、余談の域を出ないものなんじゃないのかという。それでその6000字くらいにあたる3ページだったか2ページだったかの文章はメニューの後ろ側に回して、「もしあれだったら読んでみていただくのも一興かも」という位置づけにしたのだった。

書いていてなんでいまおれこれ書いてるのかなと思ったりしているのだけど、僕が今日考えたいと思っていたのは「いい時間とはいったい何か」ということで、この文章も最初「いい時間とは」と仮タイトルをつけて書き始めたのだけど、なぜか冒頭に意味ないことを書いたがゆえなのかなんなのか、書く気が失せ、違うことが書かれた、という話でした。

「フヅクエの日々」の他の記事