本の読める店

百年の孤独、疎外と叛逆 [補遺]

Entry blog fuzkue 08

昨日の続き

昨日、内向型の人間もありなんだよね、そう言ってもらえてよかったよね、というようなことを書いたけれども、なんだか自分の中で引っ掛かりというか腑に落ちないものがあったので補足というか。

なんとなく、内向型の人間、というか内向型の人間を代弁するみたいな形になるとおかしなことになりそうだから僕、内向型の人間であろうところの僕からすると、集団でどんちゃら底抜けに楽しそうにやっている人々を見ると怖いみたいなところがある。なんか負けそうというか、気圧されるというか、お前もここまでアガってこいよみたいに要求されたらどうしようというか、そのやぐらに俺は上がれませんというか、とにかく何かしらの脅威を与えてくる人々のように見える。
そこで自身に降りかかりうる脅威の予感(予感を覚えている時点ですでに脅威として実態を持っているとも言える気がする)から自衛する方法として手っ取り早く浮上するのが、その対象を見下すことじゃないかと僕は思うというかこれは何を勝手に白状しているんだという感じだけど僕はたぶん見下すことによって「ふう…俺はきっと大丈夫…きっとまだ大丈夫…」と一息つくところがあるんじゃないか。
「ああやって無駄口叩いて溜飲下げて猿みたいに手を叩いて大口開けて笑って、その時間には一体どんな意義があるんですかね、おたくら」みたいな、そんな感じの類の。

自称内向型の人でこういう人って多いんじゃないだろうか。どうだろうか。いやそんなことない気がしてきた。知らないけど。

なんかこう、そもそもなんだけど、この内向・外向のカテゴライズがまずいんじゃないかと。昨日からの全部撤回みたいなところあるのだけど。 それぞれの人がその時々で内向モード・外向モードにあるだけなんじゃないか。もちろんその頻度によって内向型・外向型、と言ってしまうこともできるのだろうけれども、少なくとも他者を見るときにおいては「あいつは外向型」よりも「今のあいつは外向モード」の認識の方が健全じゃないだろうかと。
脅威を与えてくる人を見下して必死に自衛しようとするとき、僕はその人の内実みたいなものを何一つ想像しようとせずに、上っ面だけを見て「はいはいあいつはそういうタイプ」みたいに判断している気がするが、それはその人が今そういうモードだからであり、すごい楽しそうなその人が他の場面ですごいストラグルしてて超内向みたいな、そういう状態をもっと想像するべきなんじゃないか。一見すると外向型の方がむしろよりストラグルしていると考えることすらできちゃったりするんじゃないか。
それを一面的に「あいつは」とか言っちゃうのは人間理解が浅すぎるんじゃないかこれではさすがに。何のためにこれまで散々小説を読んできたのだろうほんとに。もっとちゃんと想像できたとき、人はというか僕はもっと他者を愛すことができるんじゃないかというか。と思ったので補足でこれ書いた。

この店を始める時にも思ったんだった、ってのを思い出したんだった。一人の時間を享受しようとする姿さえ見られるならば、これまで「むりー」と思っていたような人であろうとも嫌いにならないで済むどころか好きになれるんじゃないだろうか、と。(「と。」とか言ってキレイにまとまった風だけどまとまってるのかなこれ)

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